、生命が精神と身体とに区別できないという説には私も肯《うなず》く。けれどこの唯物論と唯心論との調和は、キリスト教的の霊と肉との調和とは別事である。聖書の「霊」とベルグソンの『物質と記憶』の「精神」と、および聖書の「肉」と『物質と記憶』の「身体」とは異なる概念である。たとえば後者では意志は精神であっても、前者では霊でもあり、肉でもある。聖書の霊肉は精神作用の二種である。後者では性欲は精神であるが、キリスト教的には肉である。物心一如論はただ性欲と肉交との間には象徴的関係があることのみを主張する。けれどそれが善いとか悪いとかを主張するのではない。聖書に拠れば、性欲は悪い、ゆえにその象徴なる肉交も悪いのである。すなわち、キリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。そのどこにも霊はない。
 第二、肉交は愛の象徴ではない。肉交はなんらかの精神的要素の象徴であるに相違ない。しかし愛の象徴ではない。「内より見れば愛、外より見れば肉交」という関係は成立しない。私は肉交が性欲の象徴であることを認める。けれど、愛の象徴であることは認めない。換言すれば二人の愛が高潮したときには、その愛の肉体的表
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