し、それは道徳とは何の関係もない、単に事実である。存在の法則から価値の法則を導くことはできない。単に要求といわば、人間のすべての行為は形式上要求の充足である。いかなる行為も十分なる動機の充足律なくして生ずるものはない。けれど道徳はそれを善しと見あるいは悪しと見ることができる。ドイトリッヒにいわば、人間のあらゆる要求をばことごとく悪しと見ることも可能なのである。さて、愛があれば肉交をしても善いという思想はどこにあるのであろうか。それは愛を善しと見る、しこうして肉交は愛の必然的結果であるというのである。おもえらく、生命は第一に精神と身体との無関係の別個の両存在ではなく、この二者は一如である。一つの全体としての生命の二つの顕現である。肉体は精神の象徴である。一つの全体として生命を内観すれば精神であり、外より官能を透して知覚すれば身体である。ゆえに内にありて心と心との抱合は、外にありては肉と肉との抱合である。愛が最高潮に達せるとき、それを外より見れば肉交となる。すなわち相愛の男女の心と心との抱合を象徴するがごとき肉交は善いというのである。かつて私はこの思想を信じた。そして私は単に肉交を許さるべ
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