ストエフスキーの作のなかにさえその作を深く見せるもののなかには一種の皮肉の要素が混じているようにも見ゆる。けれど私は思う。それは確かにいいことではなかったと。漱石氏のごときも、その点は私は常に不満であった。聖書や『歎異鈔《たんにしょう》』のなかには皮肉の調子はどこにも見えない。仏の相のなかには不動明王のごとく憤怒の相があってもそれは義《ただ》しき Indignation として慈悲円満の相の中に包摂できるかもしれない。けれど皮肉のみは完成せる像の相として許されまじき相である。
四 純潔について
完全と調和とを求める純な理想家であって、しかも事物を認識する鋭いリアリスチックな目を持っている人々がある。それは祝すべきことであるに相違ない。われらに人生の勝れた歩み方を示してくれる恩人はかような人々である。しかしかかる種類の人々のしばしば陥る一つの外道がある。それは人間の生活に一つのプログラムをつくることである。思えらく「完全と調和とはたやすく達せられるものではない。それは老年期に属することである。人生のさまざまな経験を経てこれを一つの光景として眺め渡すことのできるときにのみ可
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