の瓔珞《ようらく》を頂ける聖き人の像を仰ぐべきである。みずからその像に似んことを願うべきである。宗教はその願いの成就すべしとの約束(心証)である(私の考えでは彼《か》の世において)。それは夢であろうか? 親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。M氏は三十にしてすでにそれを捨てたのに! 私はここでもまた口を緘ぐ。なんとなれば私の心証はそれが夢でないことを宣言するほどいまだ熟していないから。しかし宗教的感情は若さや、世相に対する鈍感や、頭脳の簡単なることなどによってわずかにその情熱を支持さるるがごときものではけっしてない。ある人々にとってはそはじつにたとえば食欲のごとく稟在的なものである。われらは年老いて世相を見ることいよいよ複雑に、悪を知ることますます鋭く、しかも多くの不幸に打たれ、なおかつ、いよいよ深き情熱を示したる宗教的先人をわれらの祖先に持っている。近代もまたトルストイのごとき人を持っている。われらの人生を見る目はただあくまでも濡れ輝かねばならない。人生の真景はかかる眸《ひとみ》にのみ映ずるのである。皮肉な目には真実相は映らない。皮肉になるときわれらの心はもはや
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