。罪の苦痛の烈しいモーラリストにとって享楽主義ほど不合理な生活法はない。なんとなれば彼らは深く深く生きてもはや彼らの生活の最大関心は罪の問題に集注するところまできた。そして享楽したくても不可能な切迫した内容ばかりで生きているからである。親鸞聖人の信仰を見よ。彼はいかに罪より救われたさにあせっているか。一刻も早くどのようなことをしてでも、この罪の苦痛から逃れたかったかが察せられる。「たとひすかされてゐるのでも仏の本願を信じ参らす」といい「ただ善き人の教へを聞いて信ずるより別に仔細はない」といいほとんど無理にでも一握の藁《わら》にしがみついてるほどにさえ見ゆる。ただ一条《ひとすじ》に助けられたかったのである。苦痛や悲哀や不調和や罪そのものを選ぼうとする心は甘いでき心である。人生の外道である。運命を直視せよ。脅かさるるがごとく救いを求めよ。まっすぐに完全と祝福にあくがれよ。かくてもなおその願いのたやすく達せられざるがゆえにこそわれらの生活は苦痛にみつるのである。そしてかかる苦痛こそ「尊い苦痛」である。厳粛なる苦痛は求めずして来るべきものである。

     三 皮肉について

 かつて中央公
前へ 次へ
全394ページ中295ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング