知れた熱病のときぐらいなものである。存在を危くするがごとき重患はほとんど甘える余裕を与えぬほど厳粛に迫ってくる。そのような甘える思想ほどわれらの真実の生活の侵徹力を妨げるものはない。われらはローマンスではけっして安息できない。クープリンの『決闘』のなかでナザンスキーがロマショーフの死を止めて生のいかに愛着すべきであるかを語り、生のいかなるものをも、悲哀をも苦痛をも愛着すべきものとして説くところは私の強い注意を惹いたところである。けれどナザンスキーのかかる生活はただ生そのものに対する宗教的感情においてのみ可能であると思う。ある人はこれを、ルネッサンス以後しだいに高まってきてあのベルレーヌやボードレールを産出せしめたところのイースセティシズムの絶対的享楽境であるというが、私はしか信ずることはできない。イースセティシズムにはある限りがある。享楽主義の成立することができない所以《ゆえん》は人生には享楽できないある種類の苦痛があるからである。すなわち道徳的苦痛はけっして享楽できないのである。罪の意識そのものはけっして享楽できない。罪を罪として享楽することができないために人間には救いが要るのである
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