カて生えているからだ。私らはそれを感別する知恵で|明るく《エンライテン》せられなくてはならない。そしてその知恵に目醒めるまでには、人間は多くの苦い杯を呑むさだめ[#「さだめ」に傍点]となっているように見える。なぜ私らの生命のなかには二つの相そむく要素があるか? これはじつに恐ろしいことである。その理由は私には解《わか》らない。おそらく造り主の知恵であろう。ほむべき造り主はそのなかにかえって深い愛を蔵していられるかもしれない。私らは純な、人間らしい願いを振りかざして事実に向かうときに、その願いに対抗して働く力にぶつかってその願いが崩れる。成就しなければならないはずの願いが裏切られる。「すべてのものを失うことによって人は象徴を信ずるようになる」とアンドレーエフは言った。一心こめたる願いが滅ぶときに人間は運命を知るのである。モータルとしての運命を。あの親鸞聖人のように。その後は「善」と「悪」との問題はつまり運命と知恵との問題となる。本能の愛から脱した慈悲心が初めて出発する。人間は涙に濡れた顔を回らして初めてまともに天に向くのだ。
 私自身について語れば、私は淋しい恋をした。それは純な、一すじ
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