驍謔、になり、捨てたものをも拾い、裁いたものをも赦し、ようやく心の中から呪いを去って、万人の上に祝福の手を延ばすように、博く大きくなりたいのである。魂の内なる善の芽を培うて、「空の鳥来たってその影に棲む」ような豊かな大樹となしたいのである。造り主の名によってすべての被造物と繋りたいのである。ああ、私は聖者になりたい(かく願うことがゆるさるるならば)。聖者は被造物の最大なるものである。しかしながら聖者といっても私は水晶でつくられたような人を描くのではない。私の描く聖者は人間性を超越したる神ではなく、人間性を成就したる被造物である。それはつくられたものとしての限りを保ち、人生の悲しみに濡れ、煩悩の催しに苦しみ、地上のさだめに嘆息しつつ、神を呼ぶところの一個のモータルである。真宗の見方からはなお一個の悪人であって、「赦し」なかりせば滅ぶべき魂である。私は罪のなかに善を追い、さだめのなかに聖さを求めるのである。私はたとい、親鸞が信心決定の後、業に催されて殺人を犯そうとも、パウロが百人の女を犯そうとも、その聖者としての冠を吝《おし》もうとは思わない。
願わくばわれらをして、われらがつくられたる
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