ァによって成仏することを信じて安住したのである。彼が「善悪の字知り顔に大虚言の貌なり」と言ったのは、何々するは善、何々するは悪というように概念的に区別することはできないといったのである。善悪の感じそのものを否定したのではない。彼は善悪の感じの最も鋭い人であった。ゆえに仏を絶対に慈悲に人間を絶対に悪に、両者をディスティンクトに峻別せねばやまなかったのである。
 人間の心は微妙な複雑な動き方をするものである。生きた心はさまざまのモチーフやモメントでその調子や方向を変ずる。私はけっして善悪の二つの型をもってそれを測りきろうとするのではない。善と悪とは人の心の内で分かちがたく縺《もつ》れ合って働く。嘘から出た誠もあれば誠から出た嘘もある。ただそれらの心の動乱のなかを貫き流れて稲妻のごとく輝く善が尊いのである。ドストエフスキーの作などに描かれているように怒りや憎しみの裏を愛が流れ、争いや呪いのなかに純な善が耀《かがや》くのである。私はそれらの内面の動揺の間にしだいに徳を積み、善の姿を知ってゆきたい。人生のさまざまの悲しみや運命を受けるごとに、心の目を深めて、先きには封じられていたものの実相も見ゆ
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