黷髏S地がする。「それはじめに道《ことば》あり、万《よろず》の物これによりて創《つく》らる」とヨハネ伝の首《はじめ》に録されたるごとく、世界を支える善、悪の法則を犯せば必ず罰がなくてはなるまい。これ中世の神学者のいったごとく、神の自律でもあろう。私たちの罪は償われなくてはならない。しかし百の善行も、一つの悪行を償うことはできない。私たちは善行で救われることはできない。救いは他の力による。善行の功によらず愛によって赦されるのである。宗教の本質はその赦しにある。しかし善くなろうとする祈りがないならば、おのれの罪の深重なることも、その赦されのありがたさもわかりはしないであろう。たとえば親鸞が人間の悪行の運命的なることを感じたのは、永き間の善くなろうとする努力が、積んでも積んでも崩れたからである。比叡山から六角堂まで雪ふる夜の山道を百日も日参したほどの親鸞なればこそ、法然聖人に遇ったとき即座に他力の信念が腹に入ったのである。そのとき赦されのありがたさがいかにしみじみと感ぜられたであろうか。思いやるだに尊い気がする。私は親鸞の念仏を善くなろうとする祈りの断念とよりも、その成就として感ずる。彼は念
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