ゥし私はこの頃は、愛しつつ赦しつつ、かく為《な》すことができると思うようになりだした。おのれを釘づけるものを赦したキリストに、この商人が赦されないとは考えられない。愛はたたかいを含み得る強いものであってさしつかえはない。ただ私はそのたたかいが、他の一面において祈りの心持ちによって義《ただ》しくされることをねがう。
けだし、私たちはゾルレンを掴《つか》むことにおいて自信のない愚人である。たたかいが愛のみの動機より発することのできかねるエゴイストである。他人の運命を思えば黙《もだ》しがたく、しかも働きかけることが、他人を益するとの自信を握りかぬる弱者である。「どうぞこの人を傷つけませぬように!」と祈る心持ちなくして、安んじて働きかけることはできかねるからである。たたかいと祈りとは、愛の二つの機能である。愛が実践的になるとき、必然に生み出される二つの姉妹感情である。そして相互を義しくする。哲学的絶対を求めて後に愛そうとするならば、私たちは祈ることも、戦うこともできない立往生になる。けれど、私は真理はだんだんに知られてゆくものと思う。もし愛のなかに実感的な善を体験して、それに圧されて愛しなが
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