ゥ》って意志を貫こうとするときに、祈りの心持ちとなるのである。ゆえに、その心持ちは、しばしばたたかいの心持ちと酷似している。キリストのごとき宗教的天才においては、その愛は常にたたかいの相を呈している。そしてその闘いは、祈りによって義《ただ》しくされている。けだし、私たちは愛を実現しようと思えば、必ず真理の問題に触れてくる。深く考えてみれば、愛とは他人をして人間としての真理に従わしめようとすることのほかにはない。ゆえに愛を実行せんとするときには、自己にとって真理なることは、他人にとっても真理であるとの信仰が必要である。真理を個性のなかに限定し、その普遍性を絶対に否定する人は、他人に愛を実行する地盤はない。「われかく信ず、ゆえに他人もしか信ぜざるべからず」との信念ある範囲においてのみ、他人に働きかけることができる。愛には人間としての当為が要る。宗教的天才はその Sollen を握れるがゆえに、堂々と愛を働きかけることができたのである。私は西田氏のごとく個性とは普遍性《ダス・アルゲマイネ》の限定せられたるものと考えたい。すなわち、個性の多様性は認めつつ、その後ろに人間としての普遍的真理の存在
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