рスちは愛するときほど、人間を限られたるものとして感じるときはない。愛はただ祈りの心持ちのなかにおいてのみ、その全きすがたが成就するように思われる。私は祈りの心持ちに伴われざる愛を深いものとは思えない。昔から愛の深い人は、多くは祈りの心持ちにまで達しているように見える。深いキリスト教の信者には祈りが実際に聴かるべしと信じて、たとえば「あの友の病が癒えますように」と祈れば、もし神の聖旨ならば必ずその病癒ゆべしと信じている人がある由である。いかに幸福な心の有様であろう。私はまだとてもそこまではゆけない。しかし私は祈りの心持ちを強く感じる。愛を徳として完成する境地は祈りのほかにはないように思われるからである。
純なる愛は他人の運命をより善くせんとするねがいである。そのねがいは消極的にみずからの足らざるを省みる謙虚な心となって、他人の運命を傷つけることをおそれる遠慮となり、自己の力の弱少を感じては祈りとなる。けれどこのねがいは他の一面にては積極的に他人に向かって働きかけたい強い要求となって現われる。他人の運命に無関心でいられない心は、他人の生活に影響したくならずにはおかない。あの人は不幸であ
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