件によりて束縛せられざるをもって、その本来の相としなければならない。相手のいかなる状態も、いかなる態度も、いかなる反応も超越して、それみずから発展する自主自足の活動でなければならない。ゆえに純なる愛は相手のいかなる醜さ、卑しさ、ずうずうしさによっても、そのはたらきの倦《う》まざるものでなければならない。それは事実において至難なる業《わざ》ではあるが、私らの胸に当為《とうい》として樹《た》て、みずからの心を鞭《むち》打たねばならない。けれど、私がここに語りたいのは、この当為にはけっして抵触せずに、いなむしろこの当為を践《ふ》み行なわんために、愛より必然に分泌せらるる二つの機能についてである。それは祈祷と闘いとである。愛が単なる思想として固定せずに、virtue(力)として他人の生命に働きかけるときには、この二つの作用となって現われなければならない。
愛とは前にも述べしごとく、他人の運命を自己の興味として、これを畏《おそ》れ、これを祝し、これを守る心持ちを言うのである。他人との接触を味わう心ではなく、他人の運命に関心する心である。ゆえに愛の心が深くなり純になればなるほど、私たちは運命と
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