Cズムを数えればじつにかぎりがない。多くの親にとって子に対する愛は他人に対するエクスクリュージョンである。自分は自分をあれほど愛してくれる親が他人に冷淡なのを見るときにあさましくなる。いな自分が愛されているのは嘘である。偶然である。母の人格に根をもたない、自然力の意志の現われであると思わないではいられない。そして憎まれているのと同じく不愉快を感ずることがしばしばある。そして自分はそのときしみじみと思う。本能的愛で愛したのでは愛するものと愛さるる者との本質は少しも結びつかってはいない。人間としての自覚体が人間としての自覚体を愛するのは隣人の愛でなければならない。すなわち認識に根を持った愛でなくてはならないと。私の親は人並み以上に本能的ないわゆる「子煩悩」な愛し方をする。それだけ自分は愛されていながらアンイージイである。自分の地位をかえって険悪に感ずる。自分はできうるかぎり隣人の愛で愛されたい。また自分も両親を隣人として愛したい。しかしながら両親と常に同じ屋根の下に住みながら、襁褓《むつき》の間より親子として暮らしてきた者が隣人の関係において相対することは至難である。いわんや親の方でかかる
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