氓ノは神の使命がある。親がその点を考えないために子供の上に神意の現われんことを待たないで、みだりに自己の欲するままの傾向に育てようとする。そしてことにベルーフに関しては医者にしようとか法律家にしようとか勝手に決めようとする。聖書によればマリアはイエスがキリストとしての使命のあることを始めより告げられている。けれど、すべての母は皆マリアのような心地でその子を育つべきである。しかし事実はこれと反している。母親は本能的愛であたかも牝牛《めうし》がその犢《こうし》を舐《な》めるがごとく、自己の所有物のごとく、ときとしては玩具のごとく愛する。自己の個性を透し型にはめて愛する。もし隣人としての地位を自覚するならば子供の恋愛に対しても子供の自由を尊重すべきはずである。聖書にも「神の※[#「耒+禺」、第3水準1−90−38]《まぐ》わせたまう者は人これを放つべからず」と録してある。しかるに親は、ことに母親は自分の例でいえば、その娘の結婚に関して自分の個性、希望、趣味を透して干渉する。そしてそれを愛の名によってしながら自分の娘と娘の恋人とをいかに不幸にするかを考えない。もしそれ他人に対する親としてのエゴ
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