フ愛を自分は親に対し持っているのか? いな子供には親に対する本能を自然から賦与されていない。自分にどうして親を責める資格があろう。ここにおいて自分は親に対しても特別に親としての期待を持ち、親に親としての愛の義務を負わせることをしないで、隣人としての関係をもって対したくなる。そして親から受けている愛は十分に感謝し、親の不徳は不徳として認め、自分の親に対して愛の足りないことは、自分の不徳として謝したく思う。
世の中には子供のエゴイズムは知っていても親のエゴイズムを知っている人は少ない。けれども親には子に対してどれほど多くのエゴイズムがあるであろうか。自分の恋が破れたのも彼女の母親の娘に対するエゴイスチッシュな本能的愛のためであった。親には子に対して自然から本能が与えられてある。親が子を愛するのは何の苦もなくすらすらと愛し得られる。特別に賞むべき行為とは思われない。それよりもその本能的愛が運命に対する知恵によって深められて、隣人の愛とならざる以上は、神に対し、子供に対し、また他人に対して種々のエゴイズムを生むのである。たとえば子といえども独立した一個の人間である以上は神に属している。その子
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