Lリストが母にむかって「女よ。汝とわれと何の関わりあらんや」といったように本当に何の関係もないような気さえすることがしばしばある。始めからあか[#「あか」に傍点]の他人であるならばむしろいい。けれど対手《あいて》は世の中で最も近い密接なものと考えられ小さいときから一緒に暮らし、そして愛にみちているとみずからも許し、他人も認めている肉身の親である。その親に対してかかる感じを持つことは苦しい。しかも親の方ではそれを感じないで、なんとかすれば「親子の間だもの」などというのではないか。「親なんかそれくらいのものさ」と悟り切ってる人はいい。自分はいまだ悟りきっていない。それを悟ってゆくことは悲哀である。そういう淋しさは自分が深い悲哀に沈んでいるときに、母が来て自分を慰めてくれるときなどにことに深く感じられる。自分は母の言葉を聞きながら、「これが自分をいちばん愛するものの、一生懸命の慰めの言葉か?」と、思わず黙って母の顔を見入ることがある。そのようなとき、自分はじつに淋しい。自分はときどき思う。「自分はさまざまの悲哀を味わってきたが、自分の今の悲しみはもはや欲望《ベギールデ》のみたされざる悲哀では
前へ
次へ
全394ページ中212ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング