ニの安息と楽しさと、また誘惑的な甘さをさえ感じるのである。沼の面を染めている夕焼けがあせて早い夜が訪れかけるとき、自分は一人で櫂《かい》を取って漕ぐことがある。自分は櫂を流して、舟を波にゆだねる。そのとき沼の上から見ると岸辺の自分の家は黒ずんで小さく見え、そこにこの森の中でのただ一つの自分の部屋の灯が見えるのがどんなに懐かしく感じられるだろう。そして家の後ろの小高い丘の上のこんもりとした木立の上に大きな星がまたたくのを見るときに自分は本当に吸い込まれるような幸福を感じることがある。そのとき自分の心は全く静けさを保ち、岸辺に生えた蘆《あし》の茂みのそよぎほどの動揺もないのである。悲しみさえもそのときは涙とならないで柔らかに心をうるおすのである。自分はそのとき静かな祈りを感じる。そしてそのときほど自分の心が浄《きよ》らかに平和に、またみち足っているのを感じることはない。自分は自分の心をかくのごとく尊き有様に保ち得る生活法を善きものと思わないではいられない。「汝外に出で人と交わりて帰るときは汝の心必ず荒れて汚れたるを見いださん」というトマス・ア・ケンピスの言葉がしみじみと思われる。
自分は
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