ゥれば性欲、この両者は一如である。けれども道徳家の感ずる霊肉の背反とはこの唯物論と唯心論との認識論的の背反ではない。精神作用のなかの価値意識の背反である。例をあぐれば、性欲が肉交となる、それは何の不思議もない、その意味の霊肉一致ではなく、性欲と性欲を悪しと見る心との衝突である。かかる意味の霊肉の衝突はけっして調和されてはいない。そして私たちの最大の苦痛である。愛されないようにする力が私たちの生命のなかにある。そして愛を善しとほめる心がある。その二つのものの乖反《かいはん》はけっして一致してはいない。恋愛や骨肉の愛のごとく意志より発する愛のときはこの乖反はない。けれど認識より発する愛――隣人の愛、まことの愛のときにわれらは峻《けわ》しきこの対立を感ぜずにはいられなくなる。そこに愛の十字架がある。私は愛を証するものは十字架のみであると思う。十字架を背負わずに愛することはけっしてできない。隣人の愛をもって何人かを愛してみよ、そこに必ず十字架が建つ。自分の欲しい何ものかを犠牲にしなければならない。ある人を自分は真実に愛しているか、いなかを知るには自分はその人に対していかなる犠牲を払ったかを省み
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