ヤよりも互いに撲《なぐ》り合った二人の間に隣人の愛の起こるごとくに、両者の切なる感情をもってしたる接触が愛を生んだのである。しかし、その隣人の愛は恋や骨肉の愛の本質ではない。男性は愛の動機からではなくとも、はげしく、盲目的に女性を恋することができる。そしてその占有の欲は恋人を殺さしむることさえある。それは戦いのありさまにさも似ている。それが恋の本来の相である。母親が幼児を抱き、撫《な》で、接吻するときにはほとんど肉体的興味からの動作に酷似している。処女が男性に対して持てるごとき肉的魅力を幼児は母親に対して供えている。そのとき母親の問題はほとんど幼児の運命ではなくて、自己の興味――いな自己もあずからざる自然力の興味である。ここに私の挙げたのは著しき例である。けれどもたしかに母子の愛と男女の恋との本来の相を語っている。愛は「生きんとする意志」がみずからを認識し嫌悪するところより起こる。恋人は恋のエゴイズムを、母は骨肉の愛のエゴイズムを自覚したるときより生ずる、自主的、犠牲的作用である。私は恋を失うて恋人へのエゴイズム恋人の母のエゴイズム(恋人に対する)とを痛切に感じて一生忘れることのできな
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