ヘ苦き犠牲である。母子の間、恋人の間に涙と感謝とのあるときは両者の間に隣人の愛の働いたときである。骨肉の愛と、恋愛とが本来の立場を純粋に保つならばそは闘争であり、煩悩《ぼんのう》である。生物と生物との共食いと同じ相である。二つの生命は自然力――それは悪魔のものである――に駆られて自らは何をなせるかも知らざるごとくに他の生命に働きかける。そしてその力の根原は自己を主張せんとする意志より発する、ショウペンハウエルのいわゆる「生きんとする意志」にその根を持つところの盲目的活動である。その作用の興味となるものは依然として自己の運命である。隣人の愛は自己犠牲、死なんとするねがい、ショウペンハウエルのいわゆる「意志なき認識」より発するところの自主活動であって、その作用の興味は他人の運命である。この区別を感知することは恋を失うて得たる私の唯一の知恵である。私はそれを明らかに感じ分けることができる。母親が幼児を撫育《ぶいく》するとき男性が女性を求むるときに働くものは本来愛ではない。男女、母子の間に愛が起こるのは両者が互いに接触し、共生することによって生ずるところの隣人の愛である。あたかも交渉なき二人の
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