「肝銘を得た。そしてそのときから愛はキリストの「隣人の愛」、神の前に立って互いに隣りを愛する愛のほかにないことを感ずるようになった。私は女から「あなたを愛する」といわれるときは少しも愛されている気がしない。また母が私を撫でるように愛するとき私はかえって一種の Bosheit を感ずる。なんとなれば母が他人の子供に対する態度を見るときに、私の愛されてるのは偶然にすぎないと思うからである。女が愛する、というのは私の運命を愛するのではなく、私との接触を興味とすることを知るからである。私が恋に熱狂しているとき私は最もエゴイスチッシュであった。母や、友や、妹は私の恋のための材料にすぎなかった。そして私はつねに言っていた。「私は愛を生きている」「善をなしている」と。私はその間まことに悪い人間であった。今にして思えばそのとき私はその恋人一人をさえ真実に愛していたのではない。一つの自然力に奉仕していたのである。見よ、恋人の運命は傷つけられた。私の運命も傷ついた。そして、恋は亡びてしまったのではないか! 私は思う、愛とは他人の運命を自己の興味とすることである。他人の運命を傷つけることをおそれる心である。
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