゙女の母親の盲目的にしてエゴイスチックなる愛であった。性愛がエゴイスチックな例はかぎりなくある。
 かかる愛は自己の要求をとおして愛せんとする不純なるものであって、弊害と迷妄とが続出するものである。またかかる愛は偏愛とならざるを得ないものである。私も一時彼女以外のものが皆一様に、無関心に見えて、長い愛の歴史のある友が顧みられないことがあった。今にして思えば友がそのとき立腹したのみならず、私が愛《ラブ》の人であることを否認したのは根拠があった。甲には理由もなく一朝にして冷淡となり、乙をばにわかに狂うがごとく愛するというがごときは、人に対して愛という感情の働く動因と初めより矛盾せるものである。真に愛《ラブ》の人とはキリストのごとき普汎的な愛し方をする人である。何ゆえに甲を愛して乙を愛せぬか。そこには他のプリンシプルが存在せねばならぬ。その原理に動かさるる間は純な愛の活動ではない。あるいはそれは「愛に入る過程」を抽象したるものであって、愛はその人が美しいとか、正直であるとか、憐れであるとか、あるいは長く接触したとかいうがごとき他の条件なくては、起こらぬという人があるかもしれない。しかしはたし
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