「て私はけっして彼らに後れるものではない。私の行方《ゆくえ》にはキリストが立ってるとさえ思っている。ことに「愛」と「労働」とのキリスト教的精神は今私の生活の内に光を放ち始めんとしている。それにもかかわらず、私は本校のキリスト教徒を尊敬することができない。ああ、迷いが小さい。疑いが浅い。私らはもっと、もっとうろつこうではないか。肉を透して霊にゆき、迷いと悩みとをくぐって信仰に入ろうではないか。もっと強く、濃く、深く、鋭く生命を染め、穿《うが》ち、掘り込んで生きてゆこうではないか。「汝ら何すれぞしかく堕落を恐るるや」かく絶叫する予言者がわが校に出現せねばならないと思う。堕落を恐るる宗教は最も堕落したる宗教である。悪を容れ得ぬ善は最も内容貧しき善である。最も深遠なる宗教は堕落を包容する宗教である。最も豊富なる善は悪を持ちながらの善[#「悪を持ちながらの善」に傍点]である。『善の研究』の著者はオスカー・ワイルドの『獄中記』の例を引いて、
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基督《キリスト》は罪人をば人間の完成に最も近き者として愛した。面白き盗賊をくだくだしい正直者に変ずるのは彼の目的ではなかつた。彼は
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