本箱には金文字の背を揃えた哲学書が行儀正しく並んでいる。ガラス瓶に插《さ》した睡蓮の花はその繊《ほそ》い、長い茎の上に首を傾けて上品に薫っている。その直後にデカルトの石膏像が立ってる。この哲人はもっともらしい顔をして今にも Cogito ergo sum といい出しそうである。
私は読むともなしに卒業前後の日記を読んだ。そしてしばらくの間過去の淡い、甘い悲哀の内を彷徨《ほうこう》していた。うっちゃるごとく日記を閉じて目をそらしたとき、ああ君が恋しいとつくづく思った。そして発作のごとく筆を執った。しかしこの頃のやや荒廃した心で何が書けよう。ただただ君が恋しい。これ以外には書くべき文字がみつからない。私は近頃たびたびトリンケンに行く。蒼白い、悲哀が女の黒髪の直後に蟠《わだかま》る無限の暗のなかに迷い入るとき、皮一重はアルコールでほてっても、腹の底は冷たい、冷たい。
ああ初秋の気がひしひしと迫る。今宵私の心は著しく繊細になっている。せめて今宵一夜は空虚の寂寞を脱し、酒の力を藉《か》りて能うだけ感傷的になって、蜜蜂が蜜を啜《すす》るほど微かな悲哀の快感が味わいたい。
風の疾《はや》い、星の凄いこの頃の夜半、試みに水銀を手の腹に盛ってみたまえ、底冷たさは伝わってわれらの魂はぶるぶると慓える[#「慓える」はママ]であろう。このとき何者かの力はわれらに思索を迫るであろう。かくてわれらは容《かたち》を改め、襟《えり》を正しくして厳かに、静かに瞑想の領に入らねばならぬ。霜凍る夜寒の床に冷たい夢の破れたとき、私は蒲団《ふとん》の襟を立ててじっと耳を傾ける。窓越しに仰ぐ青空は恐ろしいまでに澄み切って、無数の星を露出している。嵐は樹に吼《ほ》え、窓に鳴って惨《すさま》じく荒れ狂うている。世界は自然力の跳梁《ちょうりょう》に任せて人の子一人声を挙げない。このとき私は胸の底深くわが魂のさめざめと泣くのを聞く。人は歓楽の市に花やかな車を軋《きし》らせて、短き玉の緒の絶えやすきを忘れている。しかし、死は日々われらのために墓穴を掘ってるではないか。瞼が重だるく閉じて、線香の匂いが蒼ざめた頬に啜《すす》りなくとき、この私は、私の自我はどこをどう彷徨してるだろう。これが暗い暗い謎である。肉|爛《ただ》れては腐り、腐りして、露出した骨の荒くれ男の足に蹈まるるとき、ああ私の影はどこに存在してるだろう。かの微妙な旋律に共鳴した私の情調、かの蒼く顫える星に翔《かけ》り行く私の詩興、これらすべては杳《よう》として空に帰すのであろうか。そればかりではない。われらを載す地球も、われらを照らす太陽も、星も、月も、ありとあらゆる者はついに破滅するというではないか。バルフォアは世界大破滅の荒涼たる光景を描いてほぼ次のごとく述べている。
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The energies of our system will decay, the glory of the sun will be dimmed, and the earth, tideless and innert, will no longer tolerate the race which has for a moment disturbed its solitude. Man will go down into the pit, and all his thoughts will perish. Matter will know itself no longer.‘Imperishable monument’and‘Immortal deeds’death itself, and love stronger than death will be as if they had not been. Nothing, absolutely nothing remains. Without an echo, without a memory, without an influence. Dead and gone are they, gone utterly from the very sphere of being.
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かくのごときは唯物論の到達すべき必然の論理的帰結である。けれども、私は物質の器械力に無限の信仰を払うにはあまりに宗教的であり、芸術的である。いわんや、この恐るべきバルフォアの自殺的真理をばいかにして奉ずることができよう。ヘッケルに身慄いして逃げ回った私のどきどきと波打つ胸をじっと抱えて、私の耳に口を触れんばかりにしてゼームス博士は、Is the matter by which Mr. Spencer's process of cosmic conclusion is c
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