、「ええッあの中にあばれ込んでできるだけしつこく楽しんでやりたい」といったようにしか思えなかったからである。愛着の影さえ荒んで見えたのである。私は君がみずから緑草芳しき柔らかな春の褥《しとね》に背を向けて、明けやすき夏の夜の電燈輝く大広間の酒戦乱座のただなかに狂笑しに赴くような気がしてならない。四畳半に遠来の友と相対して湿やかに物語るの趣は君を惹かなくなって、某々会議員の宴会の夜の花やかさのみが君の心をそそるようになるようにも思われる。君はいま利己的快楽主義の鉾《ほこ》をまっこうに振《ふ》り翳《かざ》して世の中を荒れ回らんとしている。快楽の執着、欲求の解放、力の拡充、財の獲得! ああ君の行方には暗澹たる黒雲が待っている。恐ろしい破滅が控えている。僕はこれを涙なくしてどうして見過ごすことができよう。これらもみな今までの君のライフが充実していなかったがためである。しみじみと統一的に生き得なかったためである。そう思えばますますいとしくなる。揃いも揃って美しい七人の姉妹の間に、父母の溺愛にちやほやされて、荒い風に揉まれず育った君は素直な、柔らかな稚松《わかまつ》であった。思えば六年前僕らが初めて中学に入校した当時、荒い黄羽二重の大名縞の筒袖に短い袴《はかま》をつけて、褐色の鞄を右肩から左脇に懸けて、赤い靴足袋を穿《は》いた君の初々《ういうい》しい姿は私の目に妙に懐しく映ったのであった。どうかすると君はぱっと顔を赤くする癖があった。その愛らしい坊ちゃん坊ちゃんした君を知ってるだけに、今の荒んだ、歪んだ君がいっそうのこといとしい。いなそればかりではない。君の認識論はほとんど唯我論に帰着して、自他を峻別して自己に絶対の権威を置くの結果、三之助なる者の君の内的生活において占有する地位は淡い、小さい影にすぎなくなった。僕と君とのフロインドシャフトは今や灰色を帯びてきた。君の手紙のなかには「君と別れてもいい」といったような気分が漂うてるなと私は感じた。ああしかし僕は君を離したくない、君が僕を離れんとすればするほど君を僕の側に止めておきたい。そしてできるだけ私の暖かな気息《いぶき》を吹きかけてじんわりと君の胸のあたりを包んであげたい。君よ、たとい僕と離るるとも、もし君が傷ついたならまた僕の所へ帰ってきたまえ。濡《うるお》える眸と柔らかな掌とは君を迎えるべく吝《やぶさか》ではないであろう。
 ああ、今やわれら二人の間を画《かく》して、無辺際の空より切り落とされたる暗澹たる灰色の冷たい幕。われらの魂はこの幕を隔てて対手の微かな溜息を聞き、涙を含む眸と眸とを見合わせながら、しかも相抱くことができぬのである。ああ僕はどうすれば好いのだろう。

 私は哀れな、哀れな虫けらである。野良犬のごとくうろうろとして一定の安住所が無い。寂寞《せきばく》と悲哀と悶愁と欲望とをこんがらかして身一つに収めた私はときどき天下真にわれ独りなりと嘆ずることがある。今や私には気味悪い厭世思想が心の底に萌している。この思想は蕭殺たる形を成して意識の上に現われては私を威嚇したり揶揄《やゆ》したりする。
 そこでM町を去ってF村へ鞍替えをしたがここもできたことはない。無限に続く倦怠は執念深きこと蛇のごとくここでも私に付き纏う。孤独の寂し味のなかに包まれて、なんのことはない、餅の上に生えた黴《かび》のようなライフを味おうている。
 M町から帰った夜、兄と一つコップの酒を飲んでいろいろ語った。蚊帳《かや》のなかに蟠《わだかま》る闇の裡に私らのさざめきは聞こえた。黙契の裡に談話を廃して後しばらくして、「蛙が鳴くなあ」兄の声はしめやかであった。
「独歩がいったごとくに宇宙の事象に驚けるといいなあ」と兄がいった。私は腹のなかで頷《うなず》いてる。そして、
「現象の裡には始終物|自爾《みずから》がくっついてるのだから驚いた次の刹那にはその方へ回って、その驚きを埋め合わせるほどの静けさが味わいたい」と私がいった。
「それは理知の快味だ。驚いた刹那は争うべからざる驚きの意識で占領された刹那じゃないか。その意識こそ尊い意識だ」
「森鬱《しんうつ》として、巨人のごとき大きな山が現前したとき、吾人は慄然《りつぜん》として恐愕の念に打たれ、その底にはああ大なる力あるものよとの弱々しい声がある。しかしその声に応じて縋《すが》りつくものが欲しいではありませぬか」
「縋りたいという意識の生じ得ない刹那がいっそう高い。とにかく人間の現象のなかでは驚きということがいちばん高いなあ」
 私は口を緘してじっと考えた。明け放した障子の間から吹き込む夜風はまたしても蚊帳の裾《すそ》を翻した。突然柱時計が鳴り始めた。重い、鈍い音である。数は三つであった。
 今宵は形而上学的な友である。ランプの黄ばんだ光は室をぼんやり照らしている。
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