だそのドアを敲《たた》くことをあえてしなかったため、そうした場合には深い深い交わりができたであろう人と、永久に無縁で終わることもある。そこらの微妙な不思議なキッカケ[#「キッカケ」に傍点]を思うと恐ろしい気さえする。自分の尊敬しているある人は六万行願といって、自分が生きている間に一万戸と結縁することを願としている人がある。自分も心の底からでき得るかぎり、多くの人々と結縁することを願うものである。自分は必ずしも自分が結縁したことによって相手を救済することはもちろんその運命をより直くすることができると思うのではない。しかしながら事実としては自分からでも、なお何物かを与えられることのできる人もあるであろうと思うこともまた禁ずることもできない。ただいたずらに謙遜して、ひたすら過ちなきことをのみ期するのが愛の道ではない。自分より、より小さき、より弱き、後れて来たれる者から助けを求められたときには、ある場合にはあえて師長としての助言と保護とを与えることが愛に適う場合もあり得るのである。その意味において自分は本当に実のある、親切な隣人でありたく願うのである。それらのことをいろいろ考え回すときに自分はますます多くの人と結縁することの願いを感じずにはいられない。しかもその願いが自分にはきわめて僅かにしか満たされることはできないのである。自分がそれだけ苦しみ、遺憾に思っているにもかかわらず、自分に求めて来た人はどんなにか自分を物足りなく、愛乏しく不満足に思うであろうと察しないではいられない。またそれを無理はないと思う。自分は六、七年前に自分が最も尊敬していた京都のある哲学者に面会を求めたときに、その学者が仕事が忙しいためにある面会日を指定した簡単な端書をくれたときに自分の心が傷つき、ついに不満の意を認めた手紙をその学者に送って怒りを含んで面会に行かなかったことを覚えている。自分はしかし今はその尊敬すべき学者がそうしないではいられなかった事情を察することができて、自分の大人気なかったことをむしろ愧《は》じている。人から伝え聞くところによれば、その学者はそのことを気にしていてくださるということであるが、自分は済まなく思っている。自分の場合でもさぞ、自分が六、七年前に自分が感じたがごとき不満を与える人々がどんなに多いだろうかと思わずにはいられない。自分もまたその学者のごとく、愛の名によって仕事についている人間なのだから。自分はこのことについて赦しを乞わずにはいられない。自分は自分がすべての私の欲望を放棄して、すべての精力、すべての時間をことごとく隣人との結縁と奉仕とに捧げているとはいえないからである。自分が負うている十字架もけっして軽いとは思わないが、自分にはなお悪き欲望が残っていることを認めずにはいられないからである。自分は自分が拠ってもって人類に間接に一括めに奉仕せんと欲している芸術のために、面会日を定めたり、手紙を怠ったりしなければならないのではあるが、自分の芸術がはたして人類に対するいかほどの寄与になり能うかということ、およびその製作活動が自分のプライベートな幸福でもあることを考えるときには、それを弁解の具にのみ用いることは気がひけるところもある。自分がもしこれ以上人と会い、手紙を書くならばおそらく自分の芸術はほとんどその出産の能率を欠き、自分の寿命は支えることはできないであろう。しかしながら自分にとって芸術は一つの偏執であるのかもしれない(現に私にそういってくれる、私の尊敬している人もあるのである)。自分にとって芸術は、それだけは何もののためにも放すことのできないというような、執心となっているのだから。自分がもしすべてを隣人に捧げ、芸術を断念し、「旦《あした》に道を聞いて夕べに死すとも可なり」というがごとき信念の下に、病気を顧慮することなく他人のためにのみ生きるならば、今日においてもなお面会日を定めず、手紙を怠らぬことはできるのである。あるいは聖人はそうすべきであるかとも思う。しかし今はまだ自分の信心が決定せず、自分の思想が一定せず、芸術を断念することができず、またできるだけ長生きもしたく思っている程度の私の境涯であるためにやむをえないのである。自分はけっしてそれを当然だとは思わず、また満足してもいないのであることと、そのことについて赦しを乞うているものであること、また自分がそれほどにも人と触れ合うことを自分の幸福と思っているものであるということを私の隣人たちに知っていて欲しいのである。自分は自分の尊敬しているある人がなしているように、自分が触れ合った人々――それらのなかには、去る者は日に疎く、今はどこにどうしているか解らなくなっている、けれども自分が忘れることのできない人々、あるいはまた現在住所も解ってはいるけれども、めったに便りを出すこと
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