はしかたがないことと願わしいこととはどこまでも厳密に区別したい。そして願いが正しいかぎりはしかたのないことと諦めないでそれが正しく成就される土を求めたい。自分は思い出さずにはいられない。自分が広島のある病院に長く入院していたときに、肺の悪い一人の夫人(その夫人はすでにみまかり、自分の忘れ得ぬ人々の一人となっているのであるが)のところへある僧侶が迎えられて、法話に来ていて、そこへ私も招かれて席に連なって聞いた日のことを。そのときその柔和な僧侶はいっていた。「仏は自在身でなければならない。物はこの煙草盆《たばこぼん》であれば、同時にこの薬瓶であることはできない。人は王であれば比丘《びく》であることはできない。じつに不自由なものである。しかし仏は同時に王であり、比丘であり、煙草盆であり、薬瓶であることができる自在身である。そしてすべての人のすべての用に奉仕することができるのである」と。私はそのとき深く感動したのを忘れることができない。あの法華経の観世音菩薩普門品《かんぜおんぼさつふもんぼん》のなかに「応以童男童女身。得度者。即現童男童女身。而為説法。応以天竜。夜叉。乾闥婆《けんだつば》。阿修羅。迦楼羅《かるら》。緊那羅《きんなら》。摩喉羅伽《まごらが》。人非人等身。得度者。即皆現之。而為説法」とあるように自在にすべてのものに身を現じて、奉仕することができたならば、いかに心ゆくことであろう。かかる願いは観音でなくても人間にもあるのであるが、かかる器量が人間には欠けているのである。そこに仏でなく、天人でない「人間」の悲哀がある。自分はかかる悲哀のなかに含まるる無限と永遠の感じを、人生にきわめて重くして深きものと信じるものである。かかる感じを空想として無下に擯《しりぞ》くることはけっしてできない。そこらの感じ方からこの土と浄土とを分けて考える思想、彼岸に対する抵抗すべからざる思慕、信心の意識が要求されてくる。現象界の他に世界を認めざる認識論的要求や、またこの土をただちに寂光土と見る禅宗や日蓮宗等の見方や、また天国をこの世界に実現せんとするキリスト教的世界思想の存在にもかかわらず、自分が法然上人の死後に「西方の浄土」を選んで、そこに霊魂の安息処を求めた心持ちに自分が最も心を惹かれるのもそのためである。自分は生を人身に享《う》けたるものの限界と、運命とを認めずにはいられない。人間の正しき願いを寸毫も断念することなく、これを成就せんと欲するならば、自分らはこの「限り」を感じないではいられない。自分は人と人との接触の微妙なる味、心と心との結縁の機微を思うときに、自分が病気とはいいながら、面会日を定め、面会時間を限り、またかりそめにも音信を疎略にするがごときことは、みずからに許すことができないのみならず、自分の人生における幸福な、重要なるものを減殺することとして遺憾に堪えない気がする。人間と人間と触れ合うことは無限の味、幸福、涙である。そのとき人は死を肯《うけが》うことさえ辞さないのである。それを思えば自分は一人の人間をも除さず縁を結びたい気がする。人間にはどんな人にでもその特殊な持ち味がある。その味に触れることはこの人生における最も深い、複雑な享楽である。自分は結縁というものの微妙な味を思う。自分がこれまで触れ合ったさまざまな人々を思うときに、何はともあれ、その人々と結縁したことは感謝したい気がする。相手を祝福する動機によって結縁したいわゆる「順縁」の場合のみならず、相手を呪誼《じゅそ》する動機によって結縁した(たとえば相手と口論したることが動機となって結縁したるがごとき)「逆縁」の場合においてもなおその相手と少しも触れ合うことのできなかった「無縁」の場合よりは感謝したい気がする。著しくいわば、一人の女と全然無縁であるよりも、たといその女を辱しめることが動機となったとしてもなおかつ結縁したい気さえすることがある(むろんその反対すなわち一人の小さきものを傷つけるよりは、万人から隠遁したい気もするが)。自分はこういうことを想像することがある。自分が心ひそかに永く逢いたいと思っていた人が遠くの国へ行くということを聞き、もう一生逢えないかもしれないと思って、いろいろ躊躇していたのを思い切って逢いに行く。俥《くるま》で波止場へ馳けつけるとその人はいま出帆したところであった。なぜ今日にかぎって汽車が延着してその人に逢えなかったであろうかと歎き悲しむ。がそれはいつか前の世でその人がふと道連れになったときに、自分に雨に降られて合い傘をしてくれと頼んだときにそれを拒んだためであったというようなことを。こういうことはばかげた考え方とはけっしていえない気がする。現にこの世でもこれに類することはじつに多い。病院の廊下を歩いていてふと懐しい人の表札を見いだしたが、その時た
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