の人はきわめて僅かしかない(むろん徹底的には一人にさえ十分に仕えたと思えるのはないが)。そしてそれは必ずしも愛が足りないからばかりではなく、そこには人間の地上における分限がその因をなしていることもじつに少なくない。人間は時間と空間との制約の埒外に出ることはできない。二つの物(二つの観念)が同時に同処を占めることはできない。同時に二人の人に手紙を書くことも、別の地にある二人の人に逢いに行くこともできない。しかも自分らに与えられた力と時間には限りがある。およそ人類への愛の奉仕には三種の方法があると自分は考える。一は密室で万人の幸福を祈ること。二は学術、芸術等文化に価値ある仕事に事《つか》えることによって間接に万人に奉仕すること。三は直接に個々の隣人に奉仕することである。が自分はこのうち第三のものは特殊な、重要なものであってたとい第一第二の奉仕のためにであっても、第三のものを欠くことを自分に許してはならないと思っている。われわれはかの「善きサマリア人」のごとくに触れ合う個々の隣人に仕えることによって、最も生き生きとした、実践的な実の籠った愛を贈ることができるのである(拙文「隣人の愛」参照)。しかしながら実際の場合において人類のすべての個々の人に直接に奉仕することは不可能である。またたとい可能であっても、自分の力を文字どおりに平等に万人に頒《わか》つという意味での公平は賢きものではあるまい。たとえば百万円の金をもって人類に奉仕せんとするときに、それを全人類の一人一人に頒って、一人一銭にも満たざる金を頒つことが最も愛の道に適っているとは思えない。われわれは結局縁あって触れ合う少数の人々を人類の名によって愛することによって、かくのごとき意味での万人への奉仕をなさなくてはならない。キリストの十字架は人類の個々の人へそれぞれに血の贈り物であった。しかし実際にキリストが直接に触れ合ったのは、限られた少数の人々であったに違いない。しかしながら自分はでき得るかぎり多くの隣人と結縁《けちえん》したい。自分がもし千手観音のごとくに千手を有するならば、いかに多くの人々の個人個人に奉仕することができるであろう(自分はけっしてそれらの人々を観音のごとく摂取するためにではなく、ただそれらの人々と縁結びをするためにこれを願うのであるが)。自分としては念仏によって万人の幸福を願い、芸術によって万人に愛を送らんことを心がけているものであるが、その他に自分はまたできるだけ多くの個々の人々に、できるだけしみじみと触れ合うことを願わずにはいられない。また願うことを義務と信じているものである。しかしこの最後の願いは自分にはじつに僅かしか満たされることはできない。そこに人間の限り、地の約束というものがじつに痛切に感じられてくる。自分は自分の創作的欲望の十分の一ほども満たすことのできない微弱な肉体的精力を持った芸術家である。自分のごとく作品の少ない芸術家は稀であろうと思う。自分はそのほんの僅かな仕事と、その仕事に欠くべからざるじつに少しの読書とですべての精力を費してぐったり[#「ぐったり」に傍点]してしまう。それだけさえも健康を傷つけることなくしてはできないのである。しかもそれだけさえもできない日の方が多いのである。その他の時間をもって自分は自分の第三の奉仕をしなければならない。その結果は自然の数として個々の人々に対する奉仕の粗略ということにならずにはおかない。しかもそれは自分が最も好まないことなのである。自分はせめて訪ねてくれる人々としみじみと語り、手紙をくださる人に行き届いた返事を出すことだけでも心ゆくだけしたいのである。
自分が一本の手紙を書けばどんなに喜んでくれるかもしれないハンブルな人がじつに多いのである。本当に自分はそういう人に対してはもったいない気がする。しかしそれだけのことさえも自分にはできないのである。しかも自分は多数の人々に公平を保つために一人に五、六行のはがきを出すような方法をとる気にはなれない。したがってある比較的少数の人々にかなり[#「かなり」に傍点]行きとどいた返事をし、またかなり[#「かなり」に傍点]しみじみと応接することによってこの第三の奉仕をさせて貰っている。そのためにはついにすべての手紙にことごとくは返事を書くことができず、来る人に毎日いつまでも面会することが許されない結果になる。このことはけっしてある人々には返事を書かなくてもいいと思い、またある人々にはお目にかからなくてもいいと思っているのではない。自分が千手観音でない人身であるために起こるやむをえない結果である。自分はこのことを歎かずにはいられない。もしこの土が浄土であり、自分が観音であるならば、かかる歎きはなくてすむはずである。自分はかかる土とかかる身分とを憧れずにはいられない。自分
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