要求する。第五に私が最も懸念するのはこの作が人を躓《つまず》かせはしまいかということである。人の精進を鈍くするようなことはないかということである(よく見て貰えばそういうことはないと思うが)。これはけっして私が努力や精進を重んじないからではない。私のモチーフがそこにないためである。私は真実の意味において戒律を生かしたいと思っているものである。その点では私は西田天香氏を中心とした一燈園の生活を尊敬し、病気のせいとはいいながら、今の私の暮らし方を恥ずかしく思っているものである。また天香氏があの作を愛してくだされながらも不満足に思われる理由も私にはよく解っている。あの作が現実の紛糾を解決する力がない、凄いところが無いといわれるのも肯かれる。それは私のあの作のモチーフが問題を(恋愛の問題)さえも解決する点になかったからであることは前にもいったとおりであるが、たとい私の目的が問題の解決にあるとしても私があの作を書いたときにはむろんのこと、現在においてもその成案は持ってないことをここに告白する。しかし私はその問題の解決に興味を感じないのではない。それは私の絶え間のない努力である。その点は現在および将来の問題として私の前に厳に横たわっているのである。私がもしその点に重大なる関心を持っていないならば、あの作と一燈園との縁はないといってもよい。むしろ一燈園の生活の躓きとなるばかりである。一燈園がこのたびの上演の主催者になってくださったということは私の名誉と思いまた私の青年期の懐しい思い出を甦らせて本当に私にとって嬉しいことであるが、それよりもなお意味あることはあの作に盛られていないで残っている、しかしわれわれの人間として必ず関心しなければならないこの世の実際問題の合理的解決についての努力を一燈園が中心の問題として取り扱っていることである。私はその方面についての努力を人々がゆるがせにするようにあの作が働きかけることを何より心配しているのであるから。あの作の上演が縁となって人々が一燈園の生活に注意するようになるのを望まざるを得ない。この世の相をあるがままに愛する心と、この世を改良して神の国と成そうとする努力とは私は二つともなくてならぬものであり、また相互に矛盾するものではなく、むしろ相互を義《ただ》しくするものであると思っている。私が一燈園や新しき村の仕事を尊敬し、できるだけ助けたいと思うのはそのためである。ただあの作のモチーフがその点にないというまでのことである。この点についてくれぐれも観客の躓きとならないことを祈る。なおあの芝居を観てくださる人は是非あの本を読んできてくださることをお願いしたい。でないと種々の点において誤解があろうと思われるから。最後にこのたびの上演について尽力してくださった人々に深く感謝する。
[#地から2字上げ](一九一九・一一・一八於一燈園)
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 千手観音の画像を見て

 自分はこの間、千手観音の画像を見た。そしてある深い感じに打たれた。自分が常々、こちらに引越してからはことに迫って感じている、この「地の約束」「人身《にんしん》の分限」というものについての感慨をいまさらのごとく、新しく感じさせられた。自分は大森に来てからいろいろと考え抜いたあげく、玄関の入口の壁に次のごとく書いた貼り紙をした。「医師の注意により、面談は水曜日と仮りに[#「仮りに」に傍点]決めさせて戴きます。ただし切迫した心持ちの方にはいつにてもお目にかかります」。自分はこの貼り紙を自分で書いてピンで貼ったが、そのときじつに淋しい気がした。三年前に自分は「文壇への批難」のなかの一節に次のごとく書いている。「面会日を厳守するのはおそらく最上の生活法ではあるまい。釈迦やキリストはきっとそういう生活法を嫌ったであろう。それを気にしつつやむを得ず決めているのはいい。それを当然と思っている人は、おそらく人と人との接触、天国の空想に鈍い人だろう。釈迦やキリストの域には上れない人だろう」。自分は今でもこの一節を少しも取り消さなくてはならないと思っていない。しかし自分は面会日を決めたのである。そしてこのことは自分には深く気にならずにはいられない。それは自分に、自分の日々の生活における他の、じつに多くのこれに類する限界の意識を連想せしめる。ときには、無常の感じにさえ深められる。本来「隣人としての愛」においては、甲を愛することは乙を愛することと原理上、また心持ちの上からも少しも矛盾するものではない。もし自分に千手観音のごとく千本の手がありさえすれば、万人の個々の人を、自分が最も親近な、常にともに棲んでいる特殊の隣人――家族を愛するようにしみじみと、行き届いて愛することができるはずなのである。しかし事実としては、自分が相当に愛の奉仕をなしていると思うことのできるほど
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