、私の内生命を動かし、私の霊のなかに座を占めたかぎりの親鸞である。したがってこの作に表われた私の思想もむろん純粋に浄土真宗のものではない。親鸞および浄土真宗の研究は、親鸞の実伝とその正依の経典とに拠らなければならない(むろんそれだけで親鸞の本質が掴めるとは思わないが)。第二にこの作には誰でも知っているようにきわめて多くの時代錯誤がある。しかしこれは私はあまり気にしていない。しかしむろんこれを誇ろうとは思っていない。もし少しの時代錯誤もなく、私の表わしたいと思う親鸞を表わし得たらこれにこしたことはないのである。かく多くのアナクロニズムのできたのは、私が故実に通じていないためばかりで無く、それに拘泥することによって私の表わそうとする親鸞が生き生きとして近代の心に触れてこないことを恐れるため、それよりもむしろそういうことを気にしていられないほどあれを書いたときの私の心持ちが切迫していたためである。第三にあの作は真宗のあるいは一般に宗教の教義を説明するために書いたのではない。あの作がいかばかりよく教義を解りやすく語っているかというようなことは、私の興味の中心では無いのである。私のあの作を書いた中心の興味は、人間の種々なる心持ちとこの世の相に対する限りなく深き愛である。この点に目をつけなくてはあの芝居は見ても面白くあるまい。また作者としてもその他の視点からの種々なる批評は私の心持ちと適うことはできない。ことにあの作は私が二十六歳のときの作である。そのとき私の心は切実な青年期の悩みの終わり頃、ことに二人の姉の相ついだあまりに早き死のすぐ後、一燈園《いっとうえん》から帰ったばかりの、人生の悲哀と無常の心持ちに満ちているときに書いたものである。ちょうど私が一燈園に西田天香氏を訪れる前、折蘆遺稿《せつろいこう》で読んで感動した「墨染の衣を着るになほ若し綾あるきぬはきのふ脱ぎけり」というような気持ちのとき書いたものである。私はそのときあの西国巡礼の歌を聞いてもすぐに涙の滾《こぼ》れるような気持ちであった。したがってあの作に強い劇《はげ》しいところが欠乏しているというのも私がそのときそういう方面のムードのなかに住んでいなかったためである。親鸞の性格にそういう方面が欠けていると私が解釈しているのではない。芸術品に対するとき人はいうまでもなくその作のモチーフを見なくてはならない。そのモチーフこそ作者がその作を書いた生命であって、そのほかの点で褒《ほ》められても貶《けな》されても作者の心には適わないものである。人はあの西国巡礼の歌を聞くとき、それに強い劇《はげ》しさが現われていないからと言ってそれを貶するであろうか。もしそういう人があったら、その人の気持ちはあの巡礼の歌を聞くのに適わしくないというまでのことである(もとよりそういう気持ちでないときも、またそういう気持ちにばかりなっていられないときもある)。人生に対する悲哀と無常の意識――それはもはや滂沱《ぼうだ》たる涙となって外に流れないけれども、深く深く心のなかに内攻し、その人の世相を眺める目はかぎりなき悲しみを内に秘めているような気持ち、いわば一種の喪の気持ち、そういう気持ちであの芝居を見てくださることを作者は望む。それは人生を享楽する気持ちではむろんない。人生において戦う気持ちでもない。人生を観照するという気持ちはやや近いがやはり違う。愛を内に湛《たた》えた目でこの世のあるがままの相を眺め護る、いわば人生の相のなかに仏を見いだす心持ちである。そういう心持ちであの芝居は見て貰いたい。あの作のモチーフはそこにある。それ以外の視点では見てもらってもつまらない気がする。むろん私が他のモチーフから作をすることはあろう。しかしあの作はそういうモチーフで書いたのである。たとえば釈迦の臨終に蛇や鳥の泣いている画を見て母親に尋ねる子供、その子供の着物を縫いながら画解《えと》きをしてやる母親の心、あるいはまた師の体に雪の降りかかるのを、自分の衣で蔽うようにする若い弟子の僧の心、そういう心持ちあるいは光景がただちに見る人の感覚の興味とならなくてはならない。その光景の意味を考えてしかる後初めて是非の判断をするような人は一般に劇を見るのに、ことにあの劇を見るのに適わないものである。
 私はあの作において、人間の種々の貴き「道」について語り得ていることは私のひそかに恃《たのみ》としているところではあるが、それは「道」を説くために[#「説くために」に傍点]書いたのではなく、生活に溶かされたる「道」の体験を書いたのである。第四にあの作は人間の細かな心持ちのさまざまな相やニューアンスの展開であって動作に乏しい。それもハンドルングばかりに動かされるようなことではあの作はおもしろくないに違いない。純な、潤うた、細々とした心を作者は観客に
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