が出遇うたときの幸いである。ただ私にとって最も気にかかることは「隠遁の根拠」のなかにも書いたごとく他人と交わることが他人を傷つけるかもしれない遠慮である。この遠慮から人と交わらずに淋しき処に隠退する人があるならば、これはたしかに同情すべき当然の心遣いである。聖フランシスが隠退しょうか伝道しょうかと迷ったのはあるいは他人の魂に入り込むことをおそれる謙遜なつつましさからであったかもしれない。けれども私はどうも各人が退隠することは望ましいこととは思われない。人間の心の底からの純な願いからではなく、悪に礙《さまた》げられてのやむをえぬ生活法だからである。人間には互いに働きかけたい心願がある。それがみたされないならば、人生はいかに寂寞たるものであろう。私は私の傍に愛しかける人がいなければ不幸を感ずる。ただひとりのときは犬でも飼いたい心になる。しかし他人をより善くする自信を持つことはとうていできない。しからばいかにして人と人とは従属すべきであろうか。
ここにおいて私はキリストのいわゆる「赦し」というもののいかに欠くべからざる徳であるかを思わずにはいられなくなる。人間は皆被造物としての欠点を持っている。私に自信のないごとくおそらく他人にも自信はないであろう。しからば「間違ったら許してください」という態度で自信は無くても交わることが許されないであろうか。「どうか他人の運命を傷つけませぬように」と神に祈る心持ちで交わり、そしてできた罪はゆるしを乞いつつ常に親しく接触してゆくのが人間性の最も純な道であろう。もし相互に赦し合わぬならばいかにして私たち欠けたるものが安んじて交わることができよう! 赦しはじつに人間と人間との従属に最も大切なる Tugend である。この徳のみが謙遜な人を隠遁から止めるのである。人と人との争いを和らげるのである。キリストの教えは詮ずるところ「互いに赦し合って仲よくせよ」との教えである。トルストイの『火を忽《ゆるがせ》にせよ。さらば拡がらん』という小説は善くキリストの心を呑み込んである。人間と人間はつくづく争うものではないと私は思う。人と人とは互いに罪を犯さないことはほとんど不可能である。ゆえに赦し合わないならば平和は地上に来ないのである。私は教会で皆と一緒にあの「主の祈り」を合唱して「われらに罪を犯すものをわが赦すごとくわれらをも赦したまえ……」というところに来ると涙がこぼれる。独りで祈ってるときはさほどでない。皆と一緒に祈ると涙がこぼれる。互いに罪を犯さずにはいられない呪われたる人間の子孫たちが、神の前に出て互いに赦して祈るのだと思うと私は深く感動する。そしてこのときばかりは、黙祷でなくピープルとともに神を拝する教会の存在の理由があるように感じる。私はみずからを省みてばかりいれば他人に対して何ごとをも働きかけることはできず、じつに心中不自由をきわめ、しかもそのような心構えがあっては人と人との交わりの自由な楽しさは失せてしまうことを惜しむがゆえに、この頃は親鸞聖人のようなものの考え方がなつかしくなりだした。たとえば友達に冗談のいいたいときにはこう思いたい、「私はどうせ間違いだらけである。いま悪くいわないにしても外に悪いことをいわないというのではないから、いわして貰おう」と。もし愛の心を深く知り、互いの運命をおそれていれば、それ以上は相互の理解の上に「赦し」を期待して、訴えもし、責めもし、冗談もいいたい。その間の表現は自在を極めるに至るこそ人間と人間との接触の理想であろう。魚住氏が「ケーベル先生の前に出れば自由になれる」といっているがその幸福は小さいものではない。あまりに鋭い近代人はその幸福を失いかけている。愛と赦しの心持ちを知った人と人との間にのみ滑らかな温かい従属は生まれる。私はくれぐれも善い、人間らしい心になりたい。
[#地から2字上げ](一九一七・一〇・一五)
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『出家とその弟子』の上演について
『出家とその弟子』がこのたび当地で上演されることについては、私はいま本当にハンブルな心持ちになっている。私は今この作の上演によって私の芸術的栄えの日を迎えるという気持ちはほとんどしなくて人を躓《つまず》かせはしまいかと思う懸念と弁解とが心の中に満ちている。そのことだけはどうしても書いておかなくては気にかかるから要点だけを書かして貰いたいと思う。第一にこの作は厳密に親鸞上人の史実に拠《よ》ったものではない。この芝居を見ても親鸞上人およびその弟子たちが(弟子という言葉も親鸞自身にはピッタリした言葉でなかったろう)、このとおりのことを実際行なったものと思って貰っては困る。私は親鸞を画いて虎を画いて猫に似ているといわれても甘んじて受ける気持ちなのだから。私の書いた親鸞は、どこまでも私の親鸞である。私の心に触れ
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