魂の扉を堅く鎖して孤立する。ある者はただ与えようとのみ努めて求めず訴えない。この二つは近代の優れた真面目な人々が傷つけられたために本心にそむきつつとるに至りし最も悲しき態度である。しかし孤独はけっして純な願いではない。また与えようとのみするのは傲慢である。なんらかの生活の条件を他から負わずに生きることはキリストでも[#「キリストでも」は底本では「キリスでも」]釈迦でもできはしなかったのである。この点から見れば求めずしてただ与えようとするよりも、太陽の光をも神の恵みと感じたフランシスの方がはるかに合理的である。われわれは被造物であることを忘れてはならない。光線や食物はどこから得るのであるか。私たちは絶対に与うるものとしての超人になろうとする意志を起こすならばそこには人間性の組織の上にある破壊が行なわれることを許さねばならぬ。人間として偉大なることと神の偉大なることとの間には、はっきりした区別がある。聖者はいかに偉大でも神ではない。聖者は被造物として最も偉大なるものであって、それは人間性の成就である。人間性の純なるものを破壊せずに完成したものである。それは人間としての制限を持っていてもさしつかえはない。けれど超人はわれら人間とは別ものである。絶対的与者としての超人は、人間の境域を越えた他の世界にいるものである。私たちは何ゆえに愛されたい願いを棄てねばならぬだろう。愛されたいと願うてはなぜに小さいのであろうか。私はその意味で超人よりもオーソドックスの単純なキリスト教のいわゆる「神の子」とならんとする願いをはるかに望ましく思う。超人のなかには個人主義の強い要求があるけれど共存の要求が乏しい。その与うるの愛はむしろ自己の力を頼む心より起こる。人間と人間との従属を最後の目的とした愛ではない。キリスト教の「神の子」はあくまでも被造物として完成せるものである。その天国は神の前に神の子たちの愛することと、愛せられることの自由を得て睦び合う楽園である。その理想は共存ということから少しも離れない。私たちは被造物であってさしつかえないではないか。私たちはこの制限を忘れるときに赦しと共存との意識を失うて互いに孤立するようになるのである。人間には深い共存の願いがある。一つの神の手にて創られたる同胞の思想はこの願いに立脚したじつに巧みなる説明である。私たちはただ与うることの自由を得ただけで(それさえほとんど不可能な至難なことである)人間としての徳が完成していない。さらに受け取ることの自由を得んと努力しなければならない。実際近代人はパッシーブの徳においてことに貧弱である。信じがたい、受け取りがたい、堅い、狭い魂である。もっと魂の口を開いてすらすらと受け取ることはできないものであろうか。求めず、訴えず、信ぜず、受け取らず、海底の貝殻のごとくに孤立しょうとする。それは二十世紀の最も大きな悪い傾向である。これというも人間があまりにしばしば互いに欺き、惜しみ、裁いたからである。一言にいわばエゴイスチッシュになったからである。
 ツルゲネフの小説に「徳」たちが天国で出逢って互いに挨拶をしたときに、二人の互いに見知らぬ顔の(Tugend)があった。一つは「慈悲」で他の一つは「感謝」であった、という話があるそうであるが、今の世の中ではこの最も親しかるべきはずの愛と感謝とが出逢うことが最も稀であるように見える。そして愛しても受け入れられないほどの悲しいことがあろうか。ロバートソンの説教にあるようにキリストの最も淋しかったことは自分の愛を人々が受けいれてくれないことであったであろう。与えたいときに受け取ってくれる人の無いのはじつに淋しい。私自身もだんだんに求め訴える気がしなくなってゆく。人生のつめたいことを知り人心の信じがたきことを知れば知るほど求める気のなくなるのはじつに無理からぬことである。人を見れば親切にはしてくれぬものと思い、女を見れば愛してはくれぬものとあきらめるようになってゆく。あの『死人の家』に出る犬が人を見れば打たれるものと決めてドストエフスキーの目の前でも寝転んで鞭を待ち設けた、というように、私たちも初めからあてにはせぬようになってゆく。けれども思えばそれは善い傾向ではない。ドストエフスキーはシベリアの牢獄で囚人らから排斥せられたときにはそれを白眼でも見ず、また超然として、荒々しく、内心で侮辱してもすまさず、心から悲しきことに思ったのであった。それは真面目な善い心である。訴えることは弱いことではない。与えてくれねば悲しむがいい。そしてやはり求めるがよいと思う。まれに愛を用意している人に出逢うときには、そのような善い心は雨の畑の土に吸われるように潤されることができるからである。「求むるものは幸いなり。そは与えらるべければなり」と耶蘇がいったのはこの純な心と心と
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