、もはや他人に何ものをも求めようとしない。最も平和にして尋常に見ゆる者といえども、礼儀や形式等を一種の城郭として、そのなかに拠り、互いの利益の侵されざるかぎりにおいて、あまりに峻《けわ》しき対抗の意識の重苦しさを免れんために、表面を滑らかに社交的にしているにすぎない。人と人とはけっして互いに従属していない。その心と心とはけっしてまどかに結ばれ合っていない。人と人とは互いに心を覗《のぞ》き合うことを恐れている。そしてある重苦しさが互いを圧迫している。かくのごときは近代の人の、心より欲するところではもとよりあるまい。そはこの地上の相としてやむをえざるものであろうか。私たちはその原因が私たちの対人関係の徳の不足に負うところの多いのを思うときに、その不幸のなかに合わせて羞恥をも感じなくてはならない。私たちは書を読んで、私たちの祖先の間より出でて高きに上げられたる聖者たち、たとえばかの聖フランシスのごとき人の伝記を読むときに、その前に跪《ひざまず》きたい心地がする。そこには人間性の善い、純な、朗らかな、恵みに馨《にお》うた相が、私たちの前にいとも尊く置かれてある。そしてそれは私たちの歪める、悪しき、曇れる心を、恥じしめずにはおかない。私たちはともに生けるものである。被造物として互いに似かよえるものである。互いに完全に従属することは私たちの本来の願いであるべきである。私たちがもしもかの聖フランシスのごとくに対人関係の徳と知恵とに達するならば、私たちは互いに美しき従属を|楽しみ《エンジョイ》得ないことはあるまい。私たちは何にもまして対人関係の徳を磨かねばならない。そこに初めて真の自由が望まるる気がする。近代の人はその徳について乏しいように見える。ことに受身の徳において著しく貧しいように見える。そしてそれは私たちの対人関係の不幸を造る、きわめて大きな原因をなしているように見える。与うるの徳と受くるの徳とはともに対人関係の自由に達する欠くべからざる姉妹の徳であって、後者はけっして前者より小さいものではない。人と人とは互いに求むるときにのみ初めて従属する。愛したい願いのみあって、愛されたい願いのないところでは幸福な交わりは生じない。恋人同士が幸福なのはそこにある。そして私たちの心の底には実際に愛されたい願いがあるのである。それをなぜ無理に殺さなければならないのであろうか。求めてもなかなか与えてくれるものではない。それは事実である。けれどもそのためなぜに愛されたい願いを捨てなくてはならないか? その願いは善い純な人間性の稟有《ひんゆう》するところのものである。純な善い願いはいかなることあるも殺してはならない。人間の生命はただそれのみに繋がって意味を有するのである。もし愛されたいと願っても愛されないならば歎くがよい。そして歎きつつなお愛されたいと願うがよい。それが本道である。私の考えでは私たちは理想によってのみ生きられる。理想と現実とは独立したものである。理想が現実と衝突するならば悲しいけれども、そのために理想を捨てあるいは理想を低くせねばならぬ理由はない。理想は理想として建ててただ悲しむべきである。理想をあきらめてはならない。愛されたい願いが善い願いならば事実として愛されなくとも、死ぬるまで依然として愛されたいと願うべきである。人間に宗教があるのはそれがためである。すなわちまず人間は雑然として何ものかを要求する。それは事実に当たってみたされない。そこで要求のなかから欲と願いとを分けて欲はあきらめる。その願いも感情が深くなるに従って純化されてゆく。そしてもしあきらめられるものならば皆あきらめる。しかるにどうしてもあきらめられない、それをあきらめては私たちの本質の死ぬる願いがある。それは愛である。愛することと愛されたい願いである。現実においてこの願いはみたされないとみたのは親鸞であった。ゆえに彼は宗教の彼岸においてこの願いをみたさんことを工夫したのである。絶対に仏に愛されることと、成仏して絶対に衆生を愛することとを信じたのである。私たちは愛されたい願いと愛したい願いとを持っている。この願いはけっしてあきらめられず、またあきらめてはならないものである。私たちは与えることと受け取ることの自由が得たい。与うることの自由とは客観の原理に束縛せられずして独立に与うることである。与えることの自由を得んことは、深い人はみな憧れ求めている。ここでは私たちは特に受け取ることの自由について考えたい。対人関係の徳として受け取ることは与えることよりも小さいものではない。私たちは受け取ることの徳を得ないならば偉い人間とはいえない。人間と人間との接触の滑《なめ》らかにゆかないのは一つは近代人が受け取ることの徳を持っていないからである。人の愛を受け入れない、ある人は求めず、与えず、
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