落第してまでは恋をせず、損をしてまでは芸術を作らず、十字架を負ってまでは伝道しないような人を発見する。
 一、植物と動物との絶対的区別は付せられない。ゆえに野菜を食べるのは牛を食べるのと同じことであるという人がある。夫婦間の肉交を許すならば、遊女との肉交も処女との肉交も許されていいという人がある。蚤《のみ》を殺す以上、鳥を殺してもいいという人がある。すべて性質の差別を程度の差別に帰してひっきょう同一であるというのである。しかし一羽の小鳥を殺すとき、純な生娘を犯すとき実感として悪を意識するのである。悪でないと説明されても深い、純な心は静まらないだろう。同じ論理を用いるにも、なぜ鳥を殺すのは悪いゆえに蚤を殺すのも悪いといわないか。処女を犯すのは悪いゆえに夫婦の肉交も悪いといわないか。百羽の鳥を殺すのは九十九羽の鳥を殺すより一羽だけ悪い。同じことではない。殺される鳥からいえば、そのただの一羽が絶体絶命である。百万人の人民を助けるためには、十人の人間を犠牲にしてもいいという法はない。かかる思想は道徳でなくして経済である。もし地上に天国が建てらるるならば、けっしてかかる方法で建てられてはならない。
 一、原稿は長く書いて、手紙は粗略に書く人はおそらく愛の深い人ではあるまい。それを気にしているのはいい。しかし当然と思ってはいけない。
 一、面会日を厳守するのは最上の方法ではあるまい。釈迦やキリストはきっとそういう生活法を嫌ったであろう。それを気にしつつ、やむをえず(今日の器量では)決めているのはいい。それを当然と思ってる人は、おそらく人と人との接触、天国の空想に鈍い人だろう。釈迦やキリストの域には上れない人だろう。
 一、私の尊敬している少数の人々も周囲に対するときは意地の悪い[#「意地の悪い」に傍点]文章を書く。みな心のやさしい人々なのに。そしてかかる文章を書くにいたる心理に同情しなくてはならないというのは不幸なことである。文壇はその門をくぐる人をイルネーチュアードにさせる空気を醸しているようにみえる。これはその内に入ればおのずと祈りたくなる寺院や、人と和らぎたくなる墓地やあわれみの起こる病院や、厳粛になる実験室や、素直な、温かい心地になる家庭やに比べるとき、祝すべきではないと思う。
 一、文士の告白好きなのが、魂の重々しさと、慎しみ深さの欠乏から生じていないことを希望する。私は初対面のときすぐに恋の話を持ち出すような人からいい印象を受けることはできない。しかもかかる人があまりに多くなった(しかしそうしても嫌な感じの出ない人があれば私はその人を心からほめる)。「その頃私は恋をしていたので」というような、まるで用達をしていたのか、床屋に行っていたのかを語るような恋物語の仕方をする人を私は嫌う。私たちの深い、大切な記憶は心の奥に慎しみ深く守られねばならぬ。深い深い傷や、不幸や、魂の夢や、空想や、願いや、かかる高貴なるものを軽々しく聞こうとする人も、語る人も浅人である。本当につつましい人が門をたたいたとき、あるいは心をこめてかく芸術の内でのみ語らるべきである。
 ああ私はみずから揣《はか》らずして高い高い標準を立てたような気がする。しかし私はけっしていたずらに高い理想を立して非難の口実を探したのではない。私たちはたとい実行できなくても高い高いところに向かって大願を立てたい。そしてその大願の前に自分を鞭打ちたい。私の真意を打ち明けて語れば「どんなことでもするがいい。どんなことでも赦されるのだから、しかしどんなことでも悪いと思われるかぎりは悪いと思って恥じねばならぬ。自分のつくった悪が赦されるために」というにある。文壇には私の非難の全然当たらない人々もあろう。しかし私は信じている。それらの人々は自分で文壇を非難したく思ってるような人々だろう。そして私の言説にあまり気を悪くはしまいと。まだ書き足りないが、後日に譲る。私のこの一文には深い感情と動機がある。これを幼稚だと無下《むげ》に斥くる人は、浅い心の持主である。書き終わって、荒々しい書き方をしたような気がして、何だか心が静かでない。
[#地から2字上げ](一九一八・二・一)
[#改ページ]

 人と人との従属

 現代は、人間が自己の生活に対して、最も意識的になった時代である。人がおのれの幸福についておもんぱかるに熱心なることは今の時代ほど著しいときはあるまい。人はこの地上を楽しく豊かならしめ、おのれの生活を快適ならしむるためには、種々の配慮を惜しまぬように見える。しこうしてその目的は遂げられたであろうか。この世は楽しく住み心地よくなったであろうか。ある者は互いに憎みあっている。ある者は互いに剣を抜いている。ある者は他より奪わんとし、ある者は求むる者にも拒んでいる。ある者は自己を固く塞《とざ》して
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