に願ったことが無いからである。かかる願いと不幸とを知れる心は常に涙をもって濡れている。かかる心と心とが出遇うときに初めて本当に人と人との接触から生まれる幸福がある。談話の妙味と効果とがある。私たちは本当に何を欲しているのか。私らになくてならぬもの、あきらめられないものは何か。文壇はそれを静かに考えなくてはならない。少なくとも次の諸件はわれらになくてはならないものである、すなわち、われらがいつまでも生きられること、生きているものは互いを犯し合わずにすむこと、相愛するものには永久の別れということは無いこと、善が必ず悪に勝つこと、われらに耐えられない苦痛は存在しないこと、等である。その他のことはやむをえなければあきらめ得らるるものである。「愛」の真理であることを体験せざる人には私のかかる言説は児戯に等しく感ぜらるるであろう。(かかる人々に対しては私は御身らは真にみずからが何を願っているかをまだ知らないのだというほかはない)。しかし「愛」の真理であることを体感せる人にはきっと容易に首肯できるであろう。上述の五事についての関心を放れて、他事の興味に没頭することを私は道草であるといいたい。今の文壇ははたして、人間に真に必要なる問題をはっきりと意識しているか。私はしか思えない。文壇はこれらの最深なる問題に対する真剣なる関心を示していない。上述の五件のごときは、それらが保証されざるときはわれらの存在はひっきょう空しきに帰するがごとき重大なるものであるにかかわらず、これらを主題とせる芸術にも論議にも私は遭遇すること稀である。いな、私は必ずしもこれらをただちに作品の主題にせよというのではない。ただこれらの問題に不断に関心せる心をもってものを見、事件を取り扱い、作品の素材を撰べというのである。しからざれば芸術は人生における重大なる地位を失ってしまう。なんとなればわれわれの存在にさまで必要ならざる問題にのみたずさわれる事業に深き注意を払う必要がないからである。たとえば人間は何ゆえに他の生物を食わなくては生きてゆけないのであろうかという問題が気にかかってならない人が、ある文士が漁村に冬籠りして、村の漁夫たちから食べ切れないほど美しい魚をたくさん進物に貰ったというようなことのみを中心の興味にして「書いて」ある作に満足できるだろうか。あるいは相愛するものが何ゆえ死別しなくてはならないかを考えずにはいられない、恋をしている青年が、ある文士が温泉に行って一人の舞妓と関係し、また一人の芸妓と床をともにするために、その舞妓を人形芝居に欺して連れて行かせるというようなことを中心興味にした作品が本気で読めるだろうか。心のうちに真面目な煩悶を持っている者は、物足りなさを通り越して、不愉快を感ずるであろう。多くの文士は興味の置き所が人心の深き願いのうちに無いゆえに、その感情には何よりも永い感じ[#「永い感じ」に傍点]が欠乏している。たとえば「別れ」というようなものは人生の深い深いイーヴルである。ただその一事のみにて人生は厭うべきものといってもいいほどのイーヴルである。しかもそのようなものは今の文士には大した苦にはならないようにみえる。「彼《か》の世」のことなどはまるで問題にならないようにみえる(釈迦はそれを非常に苦にしたが)。これに反して皮肉《アイロニイ》というものに対して異常な興味を示している。皮肉という感じは人間が真に本気になって何者かに関心しているときにはけっして起こり得ないものである。たとえば手術を受けるために手術台に寝ているとき、愛する者の臨終に侍しているときなどには起こり得ない。ある一つの矛盾した事象に対したとき、それをどうにもして調和させたいとあせっている心には起こり得ない。皮肉はそれ自身積極的内容を持たない情緒である。怒りよりもなお悪質な情緒である。私は他人が自分を非難したのではあまり腹は立たないが、皮肉な態度を示すと心から腹が立つ。事物の真相を見る鋭い目を持つものが、虚偽と矛盾とに対して皮肉に反応するのは無理からぬ過程ではある。しかしそれは本道ではない。耶蘇はこの世の虚偽と偽善とを知り抜いていた。しかし皮肉に反応しないで、それらを地上から除去する道を本気に工夫した。ショオと耶蘇では深さが違う。聖書や『歎異鈔』のなかには皮肉な調子はどこにも見えない。トルストイやドストエフスキーの作にも皮肉はある。しかしそれは彼らの作の尊い部分ではない。皮肉な目には人生の真景は映らない。人生を見る目はあくまでも濡れ輝かなくてはならない。ことに対人態度に皮肉を出してはいけない。もしそれおのれみずからに対して皮肉になるにいたっては、私は深い深い宗教的な罪だと思う。もし作品のなかに皮肉の要素が混入するときは、あるいは皮肉をその作品の主なる構成要素となすときは(喜劇などの場合)その
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