人の道に遠いものがあろうか。その言葉多くして行少なき、その名に対して敏感なる、その怒りやすき、その嫉妬深き、その空言を好む、その自欺に巧みなる、その肉体的快楽に感じやすき、その利己的なる、これらの悪しき性質は、他の市民に比して、文士においてはるかにはなはだしいのである。もとよりこれらは近代の文化の含む悪徳として一般的なるものではある。しかし文士はこれらの悪徳の煽動者のごとき観を呈している。しこうして市民の恥じつつなす悪行をも、彼らは当然のことのごとくにこれをなすように見える。もし文壇というものが、いな文士の日常生活の心の持ち方が、今のごとき調子のものならば、私は文士という名に嫌悪を抱く。あたかも牧師という名に嫌悪を感ずるごとくに。しかも後者においては姑息《こそく》なるものに対するはがゆさ[#「はがゆさ」に傍点]であるが、前者においては|荒らす者《ツェルステイレル》に対する敵意である。私はけっしていま自分に予言者のごとき昂揚した情熱を意識しつつ書いているのではない。反対に不幸に打たれて、しかもそれに抵抗する気のきわめて少なくなっている忍受の心――できるかぎり何ものとも和らぎたいと願う心、むしろ一種の喪《も》の感じに近い心で書いている。文士はもっと心情《ゲムュート》が濡れねばならない。あえて静平に、落ちつかねばならないとはいわない。いらいらするときも、論争するときも、遊蕩するときも、姦淫するときでさえも心情が濡れていなくてはならない。私はけっして人間の悪より放るることの至難であることを知らないものではない。ただ、しかし悪さにも種類がある。心の貧しくない悪さ、ものの哀れを知らない悪さ、和らぎを求むる心の無い悪さ、ずうずうしく恥を知らない悪さ――すべて天国に遠い性質《たち》のよくない悪さ、かかる悪さから文壇は一日も早く清めらるべきである。私は文士が論争し、遊蕩し、姦淫したりとてただちにそれを非難する気はない(私はけっしてそれらを善しとは見ないが)。しかし論争し、遊蕩し、姦淫する仕方、その心持ち、に至ってはあくまでも神経質に気にかけざるを得ない。私は文壇で気持ちのいい論争をみたことはほとんどない。皮肉や悪罵や、無益な穴探しや、相手を理解せんとする意志のない空言にみち、はなはだしきはもはや論点の所在に対する感覚を全然欠いて、いかにして巧みに相手を辱しめんかを苦心せるごとき論争をみる。かかる何人が読んでも醜い印象を受ける論争を芸術の名によって公衆の前にして見せるのは何事か。しかもかくのごとき原稿で金を得るとは何事か。しかも大部分の論争はみな第三者を眼中に置いたる、いわば公衆にして見せることを意識したる論争である。論者はそれによって「甲はとうてい乙の敵ではない」というがごとき判断を公衆の頭脳に印象せんことを目的としたるごとき論争である。しこうして結果は、論争者の相互とも一種の敵意に近き怨恨を胸に結んで別れることになる。(この点については、文士のしばしば軽蔑しがちな学者の方がはるかに、公けなもの、真理のために論争する道を知っている)。議論によって相手を説服《パーシュエイド》するということすらほとんど不可能である。まして相手をして会得せしめようとする意志のない論争が無意義なのはいうまでもない。真に相手を説服するは愛と祈りと奉仕とによるほかは無いように思われる。西田天香氏などは英語ならパーシュエイドという言葉で現わすべき概念を、受け身に「相手にまかされる」というふうに表現している。そうなるまでにはいかに対手を説服せんとする意志が実践的に鍛練せられることを要したであろうか。氏はけっして論争しない。真に説服するには論争の無効であることを知るからである。氏はたとえば利己主義者に愛の真理であることを説服するためには、その人の思想には直接関係が無いけれども、必ずその人に要する雑用(たとえばその人が渇いていれば一杯の水を汲んで来てやる、履《くつ》の紐がとけていれば直してやるというようなこと)を奉仕してゆくことから始める。もしイズムのことなど論じ合えば、相手がただちに反撥し、その心が閉じるからである。しかし愛と祈りをもってする奉仕は対手の心を動かすからである。私は論争好きな文士に、ただちに西田氏の真似をせよとはいわない。しかし自分のやってることと、氏のやってることと比較してみるがいい。そして少しは恥じるがいいと思う。遊蕩するにしてもそれを恥じつつするがいい。他人の妻と恋することがやむをえないときがあるにしても、その夫の心の受ける傷、その子供たちの運命の損うことを、死を願うほどに悲しむべきである。『アンナ・カレニナ』でも私はアンナの夫の苦痛に深く同情せずにはいられない。当然のことのごとくに思ってはいけない。やむをえないことと、正しいこととは別事である。人間が殺生す
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