もあきらめてはならない。われらの生存に意味を与うるものはただそれらの願いのみである。それらの願いをあきらめてはもはやわれらの霊魂は死ぬのである。それらの願いをけっしてあきらめずに成就せんと欲するのが宗教的要求である。人々はあるいはいうであろう。「彼《か》の世」の実在を信ぜずしては、これらの願いを持ちつづけることはできないではないかと。しかし私はむしろその反対に考えずにはいられない。これらの願いはあきらめられてはならないものであるゆえに、もしそれがこの世において成就しないものならば、必ず「彼《か》の世」が実在するであろうと。かかる問題は「こころもち」の内的実感を離れては論議さるべきものではない。ただ私は人心の深き願いのうちに永遠性を実感するものである。その願いの死なざるものであることを信ずるものである。したがってその願いを大切に大切に守りつつ生きたい。恋は人心の最も深き願いの一つである。そして多くの尊い問題をその内より分泌する、重要なる生活材料である。しかもその意識のうちには、私の信ずるところでは、天に通ずる微妙なる架橋を含んでいる。ダンテの生涯はその最もよき手本である。私は純潔なる青年に、何よりもこの問題に対して重々しい感情を保たんことを勧めたい。女に対して早くよりずるく[#「ずるく」に傍点]なることを警《いまし》めたい。かの「青い花」を探し求めたハインリッヒのごとくに「永遠の女性」を地上くまなく、いな天上にまでも探し求めることをすすめたい。しこうして「いつまでも愛します」と誓わずに、「いつまでも愛せしめたまえ」と祈り、他人を傷つけずみずからを損わず、肉体の交わりなき聖《きよ》い聖い恋をしてもらいたい(このことにつきては、『出家とその弟子』の五幕二場の親鸞と唯円《ゆいえん》との対話に詳説したからここには省く)。一度純潔を失いたる青年は、そを惜しみ、恥じ、悔い、その償いに用意したる心をもって女に対すべきである。しこうして夫婦はできるかぎりの貞潔を保たんことを努力すべきである。もしそれいかにしても遊蕩の制し得られざるときは、せめてそのことを常に恥じつつなしたい。みずからを悪人と認め、そを神に謝しつつも、なお引きずられるように煩悩《ぼんのう》の林に遊ぶ人と、それを当然のことと思って淫蕩する人とは雲泥の差がある。それはじつに親鸞と、ただの遊冶郎《ゆうやろう》との差異である。浄土に摂らるるものと、地獄に堕さるるものとの差異である。私はもしその人がみずから悪人と認めて、それを恥じていさえすれば、いかなる悪人をも責める気にはなれない。現に私はけっして清い人間ではなく(これは謙遜でもいや[#「いや」に傍点]味でもない)絶えず性欲との戦いを意識し、しかも常に不名誉な敗戦をつづけている。私はけっして人間の悪の根の抜きがたきことを知らないものではない。またその悪によってかえって人と人との結びつく呼吸をも解せざるものではない。しかし悪は悪としてどこまでも斥けたい。それをみずからに許したくない。自分を責め、鞭打ちたい。しこうしてその悪の根を抜き取る道を工夫したい。この世でできなければ、あの世でも。
 人は私があまりに善悪にこだわり[#「こだわり」に傍点]すぎると思うかもしれない。しかしながら私の祈り求めてやまざる無礙《むげ》自由の白道に出づるためにはそれは欠くべからざる手続きなのである。私はすべてのものを肯定せんとする願いにみちている。すでに造られて存在しているものは、いかなるものといえども、それを否定せずして肯定するのが本道である。造り主に対する造られたるものの義務である。私はそれを熟知している。私は性欲をも肯定したい。しかしそれは性欲をそのままに善しと見る方法によってではなく、一度悪として厳しく斥け、しかる後その悪しきものにも存在の理由を許す宗教の摂取の道によってである。
[#地から2字上げ](一九一八・一・五)

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付記。私はこの一篇を一つの優れた思索的論文を草することを意図してではなく、ある緊要な実際的なかつ遠く遂げらるるを要する目的をもって書いたのである。すなわち純潔なる青年を、かつて私が陥ったと思惟する過失――漫然たる霊肉一致の思想に甘やかされて自発的にその純潔を失うことから防ぎたいためである。その目的のために、私は精緻を欠ける思索にもかかわらず、急いでこれを書いた。なんとなれば純潔を失うことはたやすく、そして一度失った純潔は永久に還らざるがゆえに、たとい私の論旨が誤っているにしてもそのもたらす禍は私のこの一文が防ぎ得るかもしれない禍よりもはるかに小さいと信ずるからである。加うるに私は一高時代に「異性の内に自己を見いださんとする心」という一文においてその誤れる思想を主張したことを絶えず気にかけてきた
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