そこに宗教の微妙な問題が始まるのである。性欲はいかに避くべからざる生理的要求であってもあくまでも悪しきものである。恋するものは、その恋を尊ぶほどこの悪しき要求を斥くべきである。ある人はいうであろう。かく性欲を無視してはわれらの恋愛の要求は飽和することができないと。しかし私は性欲とは全然質を異にせる性のねがいがあるのではないかと思う。生物学的の根拠より発せずして前にも述べしごとく、「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる、人間の型の完成の要求より発する性のねがいがあるのではあるまいか。しこうして恋の中の涙と感謝とはおそらくこのねがいから生ずるのではあるまいか。性欲から涙と感謝とが生ずるとは信ぜられない(肉交を経験するまでは私はそれを信じていたが)。われらの魂が深く清められ、天使的願望にみたされてゆくに従って、性欲はしだいに魂から退き体の交わりはなくとも、性の要求の飽和が感じられるようになってゆくことはあり得ぬことではなかろう。(私はあの古風なキリスト教の聖別《きよめ》という宗教的経験を注意せざるを得ない)。創世記《そうせいき》によるもアダムとイブは楽園にいる間は体の交わりをしていない。キリストも「天国にあるものは娶《めと》らず、嫁がず」といっている。あるいは罰せられたるものの裔《すえ》なるわれらには絶対的の聖潔に達することは不可能かもしれない。しからばこの理想を追うものは常に性欲の誘惑と、その欠陥より生ずる飢えとに悩まさるるであろう。しかれども、その誘惑と戦いその飢えを忍び、常に祈りの気持ちの中に純潔を保たんことを努力するならば、これこそ善くなろうとする祈りに伴われたる尊き恋である。いな、ときとして肉の交わりに陥ろうとも、そを悪として神前に悔い、「貞潔を守らしめたまえ」と祈りつつ清き交わりの完成せんことを努力してゆくならば、悪魔より放たれざる被造物としては清い男女といわれ得ぬであろうか。私はこの意味においてのみ「夫婦」というものを地上に許したい。かくて生まれたる子はかぎりなく美しく、愛すべきものであるけれども、かかる善からぬ原因により生を享《う》けたるものなるがゆえにその素質のなかにすでに不幸と邪淫との種を植えられているのではあるまいか。(私は仏教の「種子不浄」という語を思い出す)。かくて地を嗣《つ》ぐものは永久に催されつつ善を祈り求めねばならないのではあるまいか。これは見かけのままにてはいかにしても不合理である。しかし天上の知恵者はそれを合理的と考え得るのであろう。かく考え得る根拠と自信とがあるのであろう。私たちが地上を去ったときその秘密が解るのではあるまいか。
 純潔なる青年よ、諸君はあるいは私の言説をきわめて空想的となすかもしれない。それは諸君があまりに女に対して現実的なる先輩を持ちすぎているからである。天なるものにつきての考察を等閑《なおざり》にする近代の文化に毒されているからである。もし中世の人ならば私の言説を最も普通のこととして聴いたかもしれない。諸君の先輩の多くの人々はおそらく「女」をただ性欲の対象としてのみ取り扱っているであろう。比較的真面目にして、恥を知れる人といえどもおそらくおのれは女に囚縛せられざる容易なる位置に立って、女の発散する美しき気分を享楽する態度をとっているのであろう。かかる種類の人が最も多い。そして最も不幸なるは、かかる人々のなかには、かつては一度美しき、聖なるものとして恋に憧憬し、烈しき幻滅を経験して、恋のついにイリュウジョンにすぎざることを知り、女に対して貴き精神内容を盛ることを断念し、ついにただその色香のみを享楽することの最も賢きにしかざるを説くに至りしものの多きことである。私はかく推移する道程には実感的な同情を禁じ得ない。諸君がその言説に動かさるるのはもっともといってもいい。実際かかる人々は目に涙して、自分の捧げた情熱のあまりに清かったことを惜しみ、払った犠牲のあまりに高価であったことを嘆ずるであろうから。彼らがもはや地上に「永遠の女性」を尋ぬることに倦むに至れる愁嘆は諸君を動かさずにはやまぬであろう。しかししかしそこに本道と外道とのきわどい分岐点がある。外道は「女」を透して輪廻に迷行し、本道は「女」を透して天界にせり[#「せり」に傍点]あげる。「永遠の女性」を地上に尋ぬるに倦みたる人は、すべからくそを天上に求むべきである。私はそこに恋と信との繋《つなが》りがあるような気がする。「永遠の女性」を求むる憧憬は人間の霊魂に稟在する善き願いである。その願いはついに地上では満たされないものなのかもしれない。しかしなぜそれゆえにこの願いを捨てねばならないのか? 何ゆえこの願いを墓場の向こうで成就させようと努めないのか。およそ人心に宿る願いはもしそれが善いものであるならばいかなる事障によって
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