忍んでもっと鋭くいおう。たとえば相手の愛人がからだ具合が悪いときにでも肉交の要求は起こるであろう。もし肉交の中途においてある愛人の生命に危険をおよぼすごときできごとが生じても、肉交は終わりまで達しなくてはなかなかたやすく止められぬであろう。そのように相手の運命を恐れない状態がはたして愛のエクスタシイであろうか。霊肉の法悦として賛美さるべきものであろうか。「あなたのためなら死にます」という愛の没我とどこに関係があろうか。
 第四、肉交したために愛がインニッヒになるのは肉交の愛であることとは別事である。ある人はいうであろう。しかし肉交したる二人は肉交せざる以前よりインニッヒになるではないかと。しかしそれは必ずしもそうではない。肉交したためにかえってはなれる愛人もある。またインニッヒになったにせよ、それはあたかも互いに撲り合うた人間と人間とが、教会堂に並んで腰をかけて互いに触れあわない二人の人間よりも、インニッヒになるのと同じことである。肉交そのものは愛ではない、また肉交せねばインニッヒになられないことはない。もしも二人が運命と運命とを触れあわすならば、二人の醜いこと、苦しいこと、羞かしいことをも共生《ミットレーベン》するならば、肉交にかぎらずインニッヒになる。肉交すればインニッヒになるかもしれない。けれど、肉交そのものは愛の表現ではない。あるいは愛と性欲とをそのように切り離して考えることはできない、という人もあるであろう。けれど私はこの精神作用のなかに本質的な区別を感じわけることができると思う。私はいかなる場合にでも、夫婦の間でも、相愛の間でも肉交は絶対に悪であると信じている。「愛のない肉交はしたくない」この言葉はしばしば聞く。しかし愛があっても肉交してはいけないのである。これは因襲でも概念でもない。肉交そのものの経験より発する実感に根をおいての主張である。仏者が女人を禁じたのは肉交そのものが悪いからである。キリストがマタイ伝に「およそ女を見て色情を起こすものは心の内すでに姦淫したるなり」といったのはけっして道徳の理想として厳重すぎてはいない。キリストの思想を純粋に守れば性欲はいかなる場合にも悪だからである。ある人はそれでは子孫ができない、人類は絶滅するというかもしれない。しかしたとい人類が絶滅しても悪は悪である。あたかも他の生物を殺さなければ人類は絶滅するけれども、殺生は悪であるのと同じ理屈である。私は人生に二つの最大|害悪《ユーベル》があると思う。一つは肉交しなければ子供のできないことと、他の一つは殺生しなければ生きてゆけないことである。もし愛が善いものであるならばこの二つはどうしても罪悪である。愛を説く人は何人もこの説を容れねばなるまい。女に対して性欲を起こしているときには、その男の心は女を祝福していない、ゆえに罪である。およそ他の生命を祝すことは善で呪うことは悪である。女の運命に関心していない。そのときには愛していない。食おうとしているときの心に酷似している。その証拠には性欲を興奮させるものはすべて呪いを含む感情のみである。「この女は処女だ、私は初めて聖《きよ》らかなものを涜《けが》すのだ。しかも私は昨夜は他の女と寝たのに」。かく思うとき性欲は興奮する。「この女は美しい弄具だ。男に身を任せるために生まれてきたようにできている」。こう思うとき性欲が興奮する。「じたばたしてももう私のものだ」。強姦するものは女が抵抗するだけ性欲が興奮する。猫が鼠を食う前に弄ぶときの心と、男子が自分の犯す女を肉交する前にいろいろ悪戯する心とは酷似している。すべての征服の意識は性欲を興奮させる。私は蛇が蛙を食ってるところを見ると性欲が生ずる。はなはだしきに至りては新聞で日本がシナを威嚇してる記事を読むと性欲が興奮する。その間にはある必然的な関係がある。しばしば手淫する人は、できるだけ惨酷な肉交を頭に思い浮かべなくては、性欲の興奮を感じなくなるという。これに反して女の運命を畏《おそ》れているときの心には最も性欲が生じがたい、愛の純粋な喜悦のときは涙と感謝とがみちて、性欲は最も遠ざかっている。美しい感情には、それを証する感謝がなければならない、性欲には感謝が伴わない。体の交わりをした直後に抱き合って泣くこともある。けれどそれは性欲そのものの感謝ではない。純潔な男女がある異常な鋭い接触をしたために感動して泣くのである。肉交に慣れた男と女とがなんらの著しき感動もなく、いな快楽さえもなく、習慣的に肉交して、互いを辱しめたことも感ぜずに、なまけた、じだらくな心で寝入るありさまを想像してみよ。じつに忌わしき感じがする。何に馴れているのがいまわしいといっても肉交になれて、なんらのパッションもなく、できるだけ安価にしかしできるだけしつこくたのしもうとするときの心ほど
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