いやなものはない。殺人と肉交とははなはだ酷似したる罪悪である。しかも肉交は殺人より、もっと質の悪い罪である。そして人間の魂は前者よりも後者においていっそうその品位を傷つけて堕落している。私はキリストが聖霊によりて、姙める処女マリアより生まれたという聖書の説話を誠にふさわしきことと思う(耶蘇を神の独り子とする福音記者の思想を純粋に守れば)。私は妻とともに伝道する牧師が、私は罪人であると告白することなしに純潔を説くときにはこそばゆいような気がしてならない。いやしくも愛を説く人はできるかぎり貞潔であることを努力すべきである。貞操という徳は二人以上の異性と肉交しないことのみではない。真の貞操は夫の所有物でなくして、神の所有物である。肉交そのものが罪悪なるがゆえに、貞潔は尊いのである。互いに恋する男女は肉交を避くべきである。そは自分らの恋を汚すものとして斥くべきである。かかる悪しき欲望が混じて働くこと自身がすでにおのれの恋の純でないことを証するものとして恥ずべきである。恋の本質はけっして性欲ではない。このことだけは私は確信している。しからば恋の本質は何であろうか。それに対しては私は他のすべての人性の深き願いについてと同じく、明瞭な答えをなし得ない。実際かかる問題は一生の問題である。いな、むしろ私の考えではそれはじつに「彼《か》の世」に亙る問題である。造り主の計画! それは地上と天国とを併せて見渡し得る知恵者の計画に属することである。われら地なるものはかかる問題についてはとうてい探り足であることを免れ得ない。しかし不断に探り求むべきである。死にいたるまで。われらの思索とは|地なるもの《ダス・イルディッヒ》を機縁として、|天なるもの《ダス・ヒムリッシェ》の知識に達することである。その思索の動因はわれらの魂の願いと憧憬であり、その思索の器官はそのわれらに稟在する先験的願求がわれらの体験を素材として醗酵せしむる想像力である。かかる想像力によってのみわれらは天なるものの俤《おもかげ》は髣髴《ほうふつ》することができる。かかる想像力が、恵みによって、照らされたるときこそ、かのヨハネやスエデンボルグのごとき宗教的天才の見たる黙示と称すべきものであろう。恋の本質は何か? そは深き深き問題である。いま私はその謎を解き得るとは思わない。ただ私の心に照らし出される、貧しい想像の形象を語るならば、私は恋は人間の原型を完成せんとする願いではあるまいかと思う。すなわち、造物主の胸の奥に人間の原型があって、地上の男女は各々それ自身では欠けたるものであり、その両性を渾融して、男性でもなく、女性でもなく、しかしけっして中性ではないところの一種の性を備えたる人間、すなわち原型としての人間(かかる人間が完全なる円相を備えたるものである)たらんと願うのではあるまいか。ある人々は全然性の差別を超越して、ただ人間としての人間になるように努力すべきであるというけれども、私はいま少しく深く考えたい。人間はすでに人間である以上、必ず男か女かである。その魂の本質まで性の差別がある。その差別は変ずることはできず、変じる必要はなく、また変じてはならないものである。その差別から性欲でない、性の願い――恋が生ずるのではあるまいか。「神初め人を男と女とに造りたまい」しゆえに生ずる恋がありはせぬか。万有の持っている差別相は一点一画といえども否定してはならない。かくするは造物主の意匠に侵入する冒涜だからである。恋のなかには一種の当為《ゾルレン》の意識がある。その意識は一種の道徳的意識といってもいい。私はかのダンテのベアトリチェに対する恋を思う。ダンテにとっては彼女はあらゆる徳の華であった。善の君であった。彼は恋のなかに善のイデアを見た。その恋は、天なるものの俤への憧憬と分かつことはできなかった。ミケランジェロのヴィクトリア・コロンナに対する恋のごとく、またあのペラダンの戯曲化したクララのフランシスに対する恋のごとく、純なる恋はわれらの「善くなろうとする祈り」と分かつことのできないものである。私はゲーテの「永遠の女性」といった心持ちを思う。またホウガッツァロの『聖者』のなかに描かれたる老牧師と少女との恋を思う。マグダラのマリアが耶蘇に対する心持ちを思う。またかの中世期に聖い、燃ゆるがごとき、けれど静かなる情熱となってあらわれた「聖母崇拝《マリエンクルスト》」の心持ちを思う。またかの観世音菩薩の男性のごとく、また女性のごとき円満にして美しき像を思い浮かべずにはいられない。かかる像に礼拝する心持ちと恋の本質をなせる心持ちとは酷似している。純なる恋の気持ちはじつに祈りの気持ちに近い。私のかかる思想はある人々にはおそらく愚かにまた空しく見えるであろう。しかし恋の涙と感謝とを体験したる人はたやすく肯くことができる
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