きものとして要求したのでもなく、また性欲に圧迫されて要求したのでもなく、じつに二人の恋を完全なるものとなすには肉交しなければならぬと信じて肉の交わりをせんとした。すなわち完全なる恋は生命と生命との抱合すなわち霊肉をもって霊肉と抱合せねば虚偽であると考えたからである。けれど私は今はこの思想を疑っている。そしてときどき私はそのときのことを考えて羞恥と後悔との念に打たれる。そして私はかかる立ち入った問題に触れるのは好まないけれど、今の多くの青年はおそらく私がかつて考えたごとくに恋と肉交との関係を考えていることと思い、そしてこの問題はことに痛ましき切実なる問題であると感じるゆえに、再考を乞いたいために、少なくともここに一人かつてはそれを信じ、今は疑うてる人間がいることを知らしめたいためにこの文章を書くのである。結論を先きに掲げれば、私は肉交は愛の必然的結果ではないと思う。いなむしろ肉交は愛と別物なるのみならず、愛の反対である。もし愛を善しと見るならば、肉交は悪しきものである。互いに愛する男女はけっして肉交してはならない! と私は思うのである。かく考うるに至れる心的過程を次に述べてみる。
 第一、生命が精神と身体とに区別できないという説には私も肯《うなず》く。けれどこの唯物論と唯心論との調和は、キリスト教的の霊と肉との調和とは別事である。聖書の「霊」とベルグソンの『物質と記憶』の「精神」と、および聖書の「肉」と『物質と記憶』の「身体」とは異なる概念である。たとえば後者では意志は精神であっても、前者では霊でもあり、肉でもある。聖書の霊肉は精神作用の二種である。後者では性欲は精神であるが、キリスト教的には肉である。物心一如論はただ性欲と肉交との間には象徴的関係があることのみを主張する。けれどそれが善いとか悪いとかを主張するのではない。聖書に拠れば、性欲は悪い、ゆえにその象徴なる肉交も悪いのである。すなわち、キリストによれば性欲と肉交とは初めより終わりまで肉である。そのどこにも霊はない。
 第二、肉交は愛の象徴ではない。肉交はなんらかの精神的要素の象徴であるに相違ない。しかし愛の象徴ではない。「内より見れば愛、外より見れば肉交」という関係は成立しない。私は肉交が性欲の象徴であることを認める。けれど、愛の象徴であることは認めない。換言すれば二人の愛が高潮したときには、その愛の肉体的表現が肉交にはならない。あるいはその肉体的表現としては抱擁して泣くかもしれない。あるいは互いに充実して沈黙するかもしれない。その他のいかなる表現をとることもあろう。しかし肉交にはならない。肉交は愛の要求からは起こらずに、他の全く異なる要求すなわち性欲から起こる。肉交はその要求の象徴である。愛とは何の本質的関係もない。肉交の要求が生ずるときは愛の弛んでいるときである。二人が真に愛しているときは感謝と涙とにはなるが肉交にはならない。そして肉交しているときは二人は少しも愛していない。肉交の頂点にあるときは二人は全くなんの関係もなく互いを忘れている。この状態は心と心との抱擁を証していると誤まられる。そこに根本的の錯誤がある。
 第三、肉交のエクスタシイは愛のエクスタシイではない、肉交はけっして霊肉の法悦ではなく、キリスト教的にいわば肉のみの楽欲である。霊は与《あずか》っていない。そのエクスタシイは男女が互いに相手の運命を忘却して自己の興味に溺れたるときに起こる。相手の運命と自己の運命とが触れるのではなく対手《あいて》を「物」とし「財」として生じたるエクスタシイである。心と心との接触ではなく、心と物との接触である、その相は生物と生物との共食いの相と同じ系統に属している。しこうして肉交の最も嫌悪すべきは、この恐るべき相を愛の絶対境と混同しあるいはみずから欺くところにある。愛の絶対境は犠牲であって肉交ではない。肉交はエゴイズムの絶対境である。ある人はいうであろう、すべての肉交がそうではない、強姦や買春の場合はそうであっても、相愛の人の肉交は愛のエクスタシイであると。しかしたとい相愛の人といえども肉交するときはけっして相手を愛してはいない。以上の提言は相愛の人の肉交についてなしたのである。ここに二人のあいびきしたときの場景を想像してみよ。二人は純粋に愛している間は性欲は起こらない。涙と感謝とである。けれどもその愛の少し弛んだとき他の全く異なれる要求がはたらき始める。そのとき愛と性欲とが混じてはたらく。したがってその愛は不純になる。そしてしだいに性欲がプレドミネートするに従って愛は退く。そしてついに性欲が勝をしめる。そして肉交になる。そしてクライマックスになる。そのときは全く愛はない。相手の運命などを考えてはいない。自己の興味――いな自己も与らざる自然力の興味に溺れている。私は不愉快を
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