ひっきょう地獄はないと思ってるからかくいえるのである。ヴィジョンとして地獄を見るほど道徳的なヨハネやダンテのような人はその火から免れる工夫をせずにはいられないであろう。罪から救われたい人はただひたすらに救われたいほかはないはずである。今夜救われればそれにこした祝福はない。事実において長く迷わねば確実な救いは得られないかもしれない。けれど永く迷いたい、そんなに早く救われたくはないと考えるのは外道である。それはその救いを求める心の真実でないことを証するにすぎない。恋をする人はただひたすらに恋のまどかに続くことを願うはずである。失恋した方が深刻になると考えるのは本道ではない。その恋は虚偽である。ただとこしえにと願う恋がしかも失われたときに、われらは深刻な人生の味を知ることができるのである。もし恋してるときに失恋の悲哀を求むるがごとき享楽的表象的気分の混入せる不純なる人ならば失恋の後も深刻な悲哀を経験することはできない。私は病気になりたい、こういう空想的なロマンチックな気分を描いてその楽しい空気のなかに甘く浸って生きてゆこうとする人を私はしばしば見る。しかし病気をたのしむことができるのはたかの知れた熱病のときぐらいなものである。存在を危くするがごとき重患はほとんど甘える余裕を与えぬほど厳粛に迫ってくる。そのような甘える思想ほどわれらの真実の生活の侵徹力を妨げるものはない。われらはローマンスではけっして安息できない。クープリンの『決闘』のなかでナザンスキーがロマショーフの死を止めて生のいかに愛着すべきであるかを語り、生のいかなるものをも、悲哀をも苦痛をも愛着すべきものとして説くところは私の強い注意を惹いたところである。けれどナザンスキーのかかる生活はただ生そのものに対する宗教的感情においてのみ可能であると思う。ある人はこれを、ルネッサンス以後しだいに高まってきてあのベルレーヌやボードレールを産出せしめたところのイースセティシズムの絶対的享楽境であるというが、私はしか信ずることはできない。イースセティシズムにはある限りがある。享楽主義の成立することができない所以《ゆえん》は人生には享楽できないある種類の苦痛があるからである。すなわち道徳的苦痛はけっして享楽できないのである。罪の意識そのものはけっして享楽できない。罪を罪として享楽することができないために人間には救いが要るのである。罪の苦痛の烈しいモーラリストにとって享楽主義ほど不合理な生活法はない。なんとなれば彼らは深く深く生きてもはや彼らの生活の最大関心は罪の問題に集注するところまできた。そして享楽したくても不可能な切迫した内容ばかりで生きているからである。親鸞聖人の信仰を見よ。彼はいかに罪より救われたさにあせっているか。一刻も早くどのようなことをしてでも、この罪の苦痛から逃れたかったかが察せられる。「たとひすかされてゐるのでも仏の本願を信じ参らす」といい「ただ善き人の教へを聞いて信ずるより別に仔細はない」といいほとんど無理にでも一握の藁《わら》にしがみついてるほどにさえ見ゆる。ただ一条《ひとすじ》に助けられたかったのである。苦痛や悲哀や不調和や罪そのものを選ぼうとする心は甘いでき心である。人生の外道である。運命を直視せよ。脅かさるるがごとく救いを求めよ。まっすぐに完全と祝福にあくがれよ。かくてもなおその願いのたやすく達せられざるがゆえにこそわれらの生活は苦痛にみつるのである。そしてかかる苦痛こそ「尊い苦痛」である。厳粛なる苦痛は求めずして来るべきものである。

     三 皮肉について

 かつて中央公論が文壇の諸家に「明治以来最も偉大なりと感ずる人および作物について」の意見を募ったときに多くの人々はそれぞれその思うところの作物と人物とをあげていたなかに私の特別注意を惹いたのはM氏の答えであった。氏は曰《いわ》く「私は人間に対して偉大なりとの感情を起こすことのできないものである。かく思うだに滑稽《こっけい》である」と。私はこの言葉が強く胸に響いた。二重の意味において。一つは氏の感じに対する強き同感と、そして一つは烈しき反感とであった。いうまでもなく私は字句の末を捕えて論ずるのではなく、この文章を通じて現わるる氏の心持ちについて論ずるのである。私は氏が人間に対して偉大なりとの感じを持つことができないという心持ちに一種の同感を感ずることを禁じ得ない。人々は偉大という言を人間に対してあまりに惜し気もなく用いすぎるように見える。われらはその外面的事業の光彩に眩《くら》まされてはならない。その人の生の歩みとその生涯を通して現われたる、もっと適切にいえば生きられたる真理に目をつけねばならない。すなわちその人によって得られたる「徳《ツーゲント》」を見なければならない。偉大なりとの称号はただ聖人に対
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