してのみ与えらるべきものである。ある種の才能の優越がいかに驚くべきものがあろうとも、この人と聖人とは厳格に区別されねばならない。世には才能に向かって崇拝しようとする人々があるが、私はかの英雄や天才をただ as such に崇拝する気にはなれないものである。もし聖人といわるべきほどの者がいるとすれば、私ははじめてその人を偉大なる人間とほめよう。けれど、はたして人間に(ことに今の世に)聖人と呼ばるるに価するものがいるであろうか。M氏はいないと思うのであろう。私はその点については口を緘《ふさ》ぐ。しかし見回す限りにおいて人間はあまりに小さく醜い。人間はいかに大きく見えても人間としての卑しさと弱さと醜さをもっている。業報によって生死の世界に生まれ出でたるものとしての制限を持っている。仏を憶念するに馴れたる心を持って人間に対するとき、ことにその醜さが際立って見える。しかもその醜き人が誇り顔に、自己の偉大を衒《てら》うがごとくにしてわれらの前に立つときにわれらは一種の皮肉なる感情を挑発さるる誘惑を感ずることを禁じ得ない。しかし私はその誘惑に身を任せてはならないと思う。そこに微妙なる、しかしながらきわめて重要なる本道と外道との分岐点があると思う。私は事物の真相を見るに鋭利にして鍛練されたる目を有する人が、皮肉に傾く過程には無限の同情を表わしはする。私自身も絶えずその誘惑を感ずるのである。しかし私はM氏の「かく思うだに滑稽である」という一句に深い遺憾を感ぜずにはいられない。(一種の同感を持ちながら)ここに氏の生活と作物とを私にとってきわめて不満足なる今日の状態に導きたる外道がある。私はかつて熱心なるキリスト者として洗礼を受けた氏のことを思うときに、一度はその若き心を領したる霊感の(氏はその経験に対しても皮肉な感を持っているのであろうが)迷行したことを不幸に思う。われらの心を真直にせよ。何ゆえに人間に対して偉大なりとの感を起こす能わざることが滑稽であるか。この悲しくして、痛ましく、また羞かしき事実が! われらの親は餓鬼《がき》のごとく貪欲に、われらの友は狐《きつね》のごとく奸譎《かんきつ》に、しこうしておのれみずからは猿のごとくに婬乱なることのこの不幸なる自覚が! ただ悲しと思うべきである。むしろ恐ろしとさえ! しこうしてわれらの現実はかく醜くとも、われらの想像力が描き得るところのかの瓔珞《ようらく》を頂ける聖き人の像を仰ぐべきである。みずからその像に似んことを願うべきである。宗教はその願いの成就すべしとの約束(心証)である(私の考えでは彼《か》の世において)。それは夢であろうか? 親鸞はその夢を追うて九十歳まで遑々として生きたのであろうか。M氏は三十にしてすでにそれを捨てたのに! 私はここでもまた口を緘ぐ。なんとなれば私の心証はそれが夢でないことを宣言するほどいまだ熟していないから。しかし宗教的感情は若さや、世相に対する鈍感や、頭脳の簡単なることなどによってわずかにその情熱を支持さるるがごときものではけっしてない。ある人々にとってはそはじつにたとえば食欲のごとく稟在的なものである。われらは年老いて世相を見ることいよいよ複雑に、悪を知ることますます鋭く、しかも多くの不幸に打たれ、なおかつ、いよいよ深き情熱を示したる宗教的先人をわれらの祖先に持っている。近代もまたトルストイのごとき人を持っている。われらの人生を見る目はただあくまでも濡れ輝かねばならない。人生の真景はかかる眸《ひとみ》にのみ映ずるのである。皮肉な目には真実相は映らない。皮肉になるときわれらの心はもはや「徳」の中に成長を止める。しかし皮肉になりたくてもならぬとき、あくまでも真直に濡れて悲しんで人生を見る人はぐっと進んで行く。皮肉はなんら積極的意義のない自殺的情緒である。耶蘇は人間の醜さや、偽善を知り抜いていた。けれど彼はそれに対して皮肉にはならなかった。ただそれを悲しみ、人間の「徳」を完成せしむべき道を工夫しようと努めた。他人に対してことにみずからに対して皮肉になってはならない。私は自分の醜さを平気で何の痛ましげもなく告白する人は真面目な告白者とは思えない。トルストイもコンフェッションを書くまでには幾度も躊躇した。みずからに対して皮肉になることは最も性質の悪いいわゆる Unpardonable sin ともいうべきものである。私はかかる問題を考えるとき、ある一つの深き宗教的罪悪というごときものの観念に導かれる。そして人間の運命には人間の私有物ではなく仏の分身なるがゆえに自己の生命に対する義務意識があるのではあるまいかというごときことが考えらるる。自殺したり、自己を呪《のろ》うたりすることはあるおのれならぬものを犯すのではあるまいか。私は皮肉を最も嫌うものである。私の尊ぶトルストイやド
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