てることは傲慢ではないと思う。いかなる人もいと高く遠きところに向かって願いを立てねばならない。けれど願いは大きいだけ畏《おそ》ろしい。法蔵比丘《ほうぞうびく》の超世の願いは思えば想うほど畏ろしい。その願いを遂げるための水火の中での数えきれないほどのあの苦行を思うときに。今や善き人の仰せを承《うけたまわ》って十字架を負わずしてこの大願を成就する不思議なる道を示されたとはいえ、われらが真にその道の上に立ちその道を安定して歩むことを得るに至るまでには、われらの前に横たわってわれらの歩を阻む蹉《つまず》きの石が多いことを感ずる。それらの石は外部の誘惑においてよりもわれらの内面、われらの思索、その思索を動かすわれらの|考え方《デンケンスワイゼ》そのものの中に置かれたるものが最も危険である。それらのあるものはわれらの注視によってのみはじめてその所在を発見し得るほどに見いだしがたく潜んでいる。すなわちわれらの思索を彼岸に通ずる本道より誘うて、まことしやかにそれを輪廻《りんね》に「迷行する外道《げどう》に」導くものがある。いま私は私自身の内面を検査してそれらの外道を発見し、わが道を直くし、わが歩を健《すこ》やかにすることを企てたいと思う。

     一 調和の信仰について

 私らは世界に生きている。そして生きているがゆえに、ただそれのみでわれらの生は善きものである。世界は調和したものでなければならぬと信じなければならない。われらは心を空しゅうしてわれらの生命を内観し、この世界の真景を熟視しなければならない。そのとき正直に、一毫《いちごう》も回避せず、悪は悪として見ることを恐れてはいけない。世界はいかに悪と不調和とに満ちていることよ。何人もそれを認めないことはできない。しかしながらこのとき生命を厭い、世界を呪うは外道である。本道はこの見ゆるところの悪と不調和との奥に、善と調和とを求むるところにある。堪えがたき悲哀と無常とのなかにあって、しかも生を呪わないところにある。多くの厭世観はそれが厭世観であるゆえのみに誤れるものといってよい。そのためには私は世界をこの現われたる世界のみに限ることができなくなってもいい。死後の生命を立てなければならなくなってもいい(実際にオーソドックスの宗教はそれをなしている)。われらの生命がよく、世界は調和したものであることを信ずるまではわれらの思索は停止してはならない、この世の悪を見ることの鋭くして正直なるものが、厭世観に留まらないならば必ず宗教心のなかに入るであろう。宗教的な人とはこの調和の信仰を捨てることのできない人のことである。絶対的の暗黒観を立てんとするある種の芸術家はきっと外道に立っているのに違いない。われらが闇を闇として安んずることができると誣《し》うるのはきっとみずから欺いているのである。われらはその本性上光を愛するものである。悉皆《しっかい》のものみな仏性を帯びているのに相違ない。われらは真にみずから欲するものを欲するといわなければならない。自己の本願を欺くものは外道である。ほとんどすべてのものを否定した勇猛なる親鸞もついに救いそのものを否定することはできなかった。これをしも否定するとき人間はもはや鬼である。すでに人間としての性質を失えるものである。年老ゆるごとにいよいよ深くこの世の悪を知り、しかもいよいよ高きところに光を求めた親鸞は真に人生の本道を歩んだものである。私は厭世観には直接な、きわめて実感的な同情を持つ者である。私自身悲苦の間に呻吟《しんぎん》しているのである。しかし私はあくまでも光を求めたい。救いを信じたい。それはわれらが生まれたるかぎり必ずなくてはならないはずのものである。

     二 甘える心について

「人生にはさまざまの不調和がある。それを調和したい。けれど明日もし調和してしまったら変なものだ。やはり不調和のなかで苦しんで努力した方がいい」こういうことをいう人がある。しかし私はこれも本道ではないと思う。われらは調和が欲しいのだ。そして現在の禍悪《ユーベル》が堪えがたいのである。もし明日調和になればこれにこした福はないと思うべきである。事実においてはそう思っても、調和にならないから悲しいのである。そして努力は不断に続くのである。けれど不調和の方がいいと思うのは外道である。そう思われるのは現在の禍悪に対する悲哀がまだせっぱつまった厳粛なものでなく、そこにある表象的な要素があるからである。その要素がそのようなことをいわせるのである。これを運命に甘えた思想と私はいいたい。これに似た考え方はことごとく人性の本道ではない。たとえばたとい死後に地獄があって永遠の刑罰に与《あずか》ろうとも私は罪を悔いようとは思わない、というような思想も外道である。これは地獄の火の恐るべき苦痛に甘えている。
前へ 次へ
全99ページ中73ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
倉田 百三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング