に他人を傷つけないということができないとすれば(できねばならぬはずだが、人間はその方法を知らないように見ゆる)その傷害を同胞の愛をもって互いに赦し合うたらどうであろう。それでも互いに働きかけないよりかはるかに人心の願いに適うのではあるまいか。「われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と耶蘇が弟子たちに「かく祈るべし」と教えられたのもそのこころではあるまいか。私は教会で人々と共にこの祈りを口に唱えるとき、いつも涙がこぼれる。一人で祈るときにはそうでもないが、人々と共に祈ると涙がこぼれる。平生は互いに罵《ののし》り合い、傷つけ合うている人間同士が、日曜に一度神の前に出て互いに赦しを乞うているのだと思うと、私はなんともいえない感動をおぼゆる。そして祈りは密室の黙祷でなくてはならぬとよくいうけれども、ピープルとともに祈るのは別な深い意味があって、そこに教会の存在する根拠がありはせぬかと思うほどである。私らは与《とも》に生きているのである。共存の意識は個存の意識より浅いものではない。みずからを一段高く置く態度はとうてい相対的のものである。「あなたはそれで私を傷つけませんか」と小さきものに念を押されたときなんといって答えようぞ。かの耶蘇の生涯といえども、その疑いから免れることはできない。耶蘇はおそらく旧約を読み、また永きユダヤの伝説から、自分をキリストである、すなわち人間とは本来|品《ひん》を異にせる神の独り子なる贖主《あがないぬし》と信じたのであろう。彼の高き権威はそこから出ているのである。パウロの権威と耶蘇の権威とは程度の相違でなくして、品の差異である。私は耶蘇の特殊の伝説的地位でなくして、耶蘇のごとき権威をもってものをいうのは間違いであると思う。パウロの権威は私に理解できる。しかし耶蘇の権威はいまの私には不思議というほかはない。神と被造物との間には絶対的の区別がある。聖者は神でなく被造物の最大なるものである。それは人間性の超越ではなくして完成である。そこにはまだモータルとしての制限は残ってもよいのである。私らが被造物としての境を守るならば、「兄弟よ、私も間違うけれども赦してくれ」という態度をとらねばならぬ。その方が合理的であるのみならず、良心の前に安らかである。私はその態度になって初めて他人に話しかけ、働きかけることが、みずからに許される心地がする。かくて後たとい互いに過ちをつくろうとも、祈りと赦しとによってその過失からかえって互いに結び付け、富ますこともできるのである。私はこの後他人に働きかけたいときにはかく思おうとおもう。「私は今この人を傷つけるかもしれない。しかしいま傷つけないからといって、それで私はいつも傷つけないというのではないのだから、できるかぎり気をつけて働きかけさして貰おう。神様私が誤りませぬように守ってください。兄弟よ、許してくれ」と。みずからを高しと置くも、兄弟と置くも、実力だけのことしかできず、また実力だけのことはできるのである。しかし兄弟と置かなくては uneasy である。今の私の器量ではこの祈りの心と赦しを求める心とに支えられて、他人に働きかけるよりほかに知恵を持たないのである。もっと深い態度があらば、私は切に教えてほしい。
 私はかような態度でこれから私の心の内に積っている感情や、願いや訴えを同胞に話しかけたいのである。私はそれらのものを共存者と公有していることを信じる。なんとなれば私の悩みや願いはもはや私のものとしてそれらであるというよりも、人間としての公けなるものばかりだからだ。その点において永遠性と普遍性を帯びて万人の心に触れるはずである。たとえば「何ゆえにこの世にはさまざまな禍悪《ユーベル》があるのであろうか」というような悩みは私の私有であろうか? 私は、私としてでなく、人間として、公けに悩んでいるのである。私らはかく悩むときに、その悩みを同胞と分け持ちつつあることを信じることができる。そして深い共存の感じがする。私はさまざまの不幸のなかに涙して生きている。人生の永い悲哀に触れて心は濡れて輝いている。一人の人間がいかに忍耐して、強くまともに生きているかは他の人間の力となり、慰めとなる。私はしみじみと語りたい。安否を兄弟にたずねたい。みんなみんなしあわせに暮らしてくださいという気がする。
[#地から2字上げ](一九一六・一一)
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 本道と外道

 人間の精神生活の目的は成仏する(昇天する)ことである。かく願うことはわれらの現実の弱小《じゃくしょう》醜穢《しゅうわい》なる心的状態を省みるとき、あまりに誇大なるごとく見ゆるけれども、私は願いはいかに大きくても大きすぎることはないと思う。願いそのものさえ純粋であるならば、いかにみずからは小さく卑しくとも願いを立
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