カて生えているからだ。私らはそれを感別する知恵で|明るく《エンライテン》せられなくてはならない。そしてその知恵に目醒めるまでには、人間は多くの苦い杯を呑むさだめ[#「さだめ」に傍点]となっているように見える。なぜ私らの生命のなかには二つの相そむく要素があるか? これはじつに恐ろしいことである。その理由は私には解《わか》らない。おそらく造り主の知恵であろう。ほむべき造り主はそのなかにかえって深い愛を蔵していられるかもしれない。私らは純な、人間らしい願いを振りかざして事実に向かうときに、その願いに対抗して働く力にぶつかってその願いが崩れる。成就しなければならないはずの願いが裏切られる。「すべてのものを失うことによって人は象徴を信ずるようになる」とアンドレーエフは言った。一心こめたる願いが滅ぶときに人間は運命を知るのである。モータルとしての運命を。あの親鸞聖人のように。その後は「善」と「悪」との問題はつまり運命と知恵との問題となる。本能の愛から脱した慈悲心が初めて出発する。人間は涙に濡れた顔を回らして初めてまともに天に向くのだ。
私自身について語れば、私は淋しい恋をした。それは純な、一すじな、かつ公けなものであった。けれども私は裏切られた。そして深い心の傷と癒えざる病とが私に残された。そのとき私は人生の寒冷をしみじみと感じた。そして他人に依嘱した生活の脆《もろ》さと、求むる心のはかなさとを知った。私はもはや他人の愛は求めまい。私自身のなかに独立自全な生活を建てようと企てた。私のこれまでの生活の破産の原因は他人に求めかつ働きかけた点にある。ゆえに私は他人との接触を断って私自身のなかに閉じ籠《こも》らねばならぬと考えた。この心持ちのなかには人間に対する反抗心とミスアンスロフィックな感情が含まれていた。そのとき私を惹きつけたのは中世紀風な、隠遁《いんとん》的情趣であった。淋しい海べの旅館や、沼のほとりの離れ家に、人を避けて静かに、書物を読みほとんど賑《にぎ》やかな人里へは出なかった。私はたまたま街に出ても行き遇う人はみな卑しく、恐ろしく感じられた。「あの品の好い紳士は、あれで心は残酷で、吝《けち》くさいのだろう。あの百姓は単純そうに見えて、本当に嫌にしつこくて貪欲《どんよく》なのだろう。あの娘は美しいけれど、あれでいざとなれば恋人を捨てるんだろう。あの奥様は淑《しと》やかに見えるが、あれで娼婦のような性質が隠れているのだろう。私はおまえさんたちに愛を求めるほど弱くはない」私はこのようなふうに考えた。そして急いで隠れ家に帰った。水辺に蘆《あし》など生えていた。夜となれば燈火をかかげて、トマス・ア・ケンピスや、アウグスチヌスなどを読んだ。Don't trust to man, but believe in God, と聖書には録されてあった。「汝ら心の貞操を保たんとならば人を避けて、静かなる処に隠れよ、けっして出づるなかれ。汝もし外に出で、人と語りて帰るとき、必ず汝らの心荒らされて『汚れ』たるを見いださん」とトマス・ア・ケンピスは教えていた。O, Gott, du liebest ohne Leidenschaft! とアウグスチヌスは祈っていた。ときどき夕ぐれなど人懐しい心に惹かれて街の方に足の向くときには私は自分を叱った。「おまえは何を求めに街に行くのか。人の愛か、女のなさけか? おまえはそれを求めて失敗したばかりなのに」。そして私は心を堅くして refuge に引き返し引き返した。
けれど、かような生活は、博いまともな道を歩きたいという私の本来の願いと相容れるものではなかった。かような隠遁生活には反抗心のつくる無理がある。公けな心はその無理を発見する。そしてもっと素直な道を求めずにはおかない。私の心の内には素質としての人懐しさがある。その願いは外に出道を求めずにはおかなかった。私は反抗心の和らぐとともに、独りの生活に寂しさを感じだした。私は遠くの友には、かえって前よりしばしば手紙を送った。ことに女の友には、「私はもはや女の愛を求めようとは思いません」と書かねば気が済まなかった。けれどかく書き送る心の底には微妙な訴えのこころが含まれていた。そのときこの人懐しさのほかにもっと強く正面から私の退隠生活を破る原因となったのはドストエフスキーと聖フランシスとであった。ドストエフスキーはシベリアの牢獄で荒々しい、残忍な、しつこい人々の間に交わりつつ、いかにそれを耐え忍んで愛したであろうか。ことに感動すべきは彼らから排斥せられたときに、みずからを高くし、軽蔑の心から孤独を守らずに、心からそれを辛きことに思ったことである。それを辛く思えたのはドストエフスキーの博さと謙《へりくだ》りとである。またフランシスは隠遁して神との交わりにもっぱらになろうとの願
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