いが高まったときに、それは悪魔の誘惑として、その願いに打ち克つように祈ったというではないか。私は退隠するのは強いことと思って、市に出たい、自分の心を叱ったのに、フランシスは退隠するのは弱いこととして、山に隠れたき心を鞭打っている。そこに私の心のエゴイズムが日に晒《さら》さるるごとくに露《あら》われているではないか。ドストエフスキーのような場合には、愛を求むる心はけっして弱いとはいえなくなる。またたとえ愛を求むる心は弱くとも、愛を求めずに与うる心で市に出でるのはもっと強いことである。愛が強くなればそうせずにはいられぬはずである。私は高慢で、エゴイスチッシュであった。私はどのような嫌な冷淡なしつこい人間とでも忍耐して交わらなくてはならない。
 私は退隠生活をやめようと決心した。その頃私はまた病気が悪くなって、旅の病院に入らねばならなくなった。そこで私は手術の苦痛を怺《こら》えつつ、長い月日を送らねばならなかった。私はその頃の私の生活を、めで慈しみつつ思い返さずにはいられない。心はかなしみと忍耐に濡れて、親しい静けさを守っていた。「ドストエフスキーのように」というのが、その頃の私の生活のモットーであった。そこで私は触れ得るかぎりの人と触れ、彼らをことごとく隣人の愛で包もうと努めた。他人の争いの仲裁者となったり、病める青年を慰めたり、新聞売りの老婆や、飯焚《めした》きの小娘や、犬やをも労《いた》わり愛した。また卑しい仕方に私を弄《もてあそ》ぼうとした一人の少女にも、少しの怒りをも漏らさずに、かえって彼女に赦しの徳を説くこともできた。私の生活は、ここで、まれな静けさと、調和とを獲《え》て落ちつくように見えた。そしてみずからも天の甘美と、遠い平和とに与《あずか》るような心地がした。けれどもそれは、たまたま運命に許されての、偶然な恵みにすぎなかった。運命に毀《こぼ》たれぬ確かな平和はまだその影をも私に示しているのではなかった。病院生活の終わり頃に、私はまた一つのできごとに試みられて私の生活法を代えねばならなくなった。私は一人の社会的に身分の低い女に恋された。私は牧師や、伯母の注意があったにもかかわらず、キリストがサマリアの女と井戸端で語った例などを思い、どのような人でも愛を求めてくるものを斥《しりぞ》けてはならないとて、この女とも公けに交わった。私はこの女をもナハバーリンとして交わる気であった。けれどもさまざまの紛糾の末に、その結果は女の心に悩みの種を蒔《ま》き、みずからの心の平和を乱し、周囲の人々に煩わしさと混雑とを被らせることに終わった。このできごとは私に深い反省を与えた。私は自分の理想と器量との間に考察がなければならないことに初めて気がついた。「いかなる人々をも愛して交われ」という教えは正しい。この教えを生かすのは耶蘇の器量である。しかし器量の小なるものはこの教えを生かすことはできない。サマリアの淫婦に話しかけた耶蘇には、彼女を説服して神の国の民となす力があった。しかし私は一人の婦人の運命を傷つけたのである。私はそのときから自分の力がひどく気になりだした。ある人と接触する前に、その人を幸福にし得る、少なくも傷つけないとの自信がなくてはならない。その自信なくして他人に働きかけるのは、たとい与うるの愛に燃えているとも、運命を畏れざる軽卒である。おそらく何人といえども、この反省の自分の行為の前に横たえる溝渠《こうきょ》を越えることは容易ではあるまい。私の足はぴったりと止まった。私には自信がない、一人の人間、一羽の小鳥でも、触れて傷つけないとの自信はない。「一人の小さきものを蹉《つまず》かすよりは、石臼《いしうす》を頸《くび》に懸けて、海に沈めらるる方むしろ安かるべし」と聖書には録されてある。私は苦しくなった。私は愛すことと、その愛を働きかけることとの間に峻しい障害を感じだした。私はある人が「あなたは善い人間だが、ただちに人の懐《ふところ》の内に飛び込んで中を見ようとするから、本能的に心の扉を閉じたくなる」といったのを思い出した。またある女が「他人がアクセプトしないのに愛したがるからいけない」といったのを思い出した。私はますます解らなくなった。私は考え出すとほとんど手も足も出ないほど不自由を極《きわ》めてくるのを感じた。そのとき私は親鸞聖人の心持ちがしみじみと仰がれる心地がした。聖道の慈悲では「心のままに助けとぐることありがたき」ゆえに「この慈悲|始終《しじゅう》なし」と見て取って「いそぎ仏となりて心のままに助けとぐるべし」と浄土の慈悲に入られたのである。「念仏申すこそ誠《まこと》に末通りたる慈悲にてや候ふべき」というのはじつに深い心持ちである。心の内で愛すことはできても(それもおぼつかないのであるが)その愛を働きかけることは、他人の運命を傷
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