sおそ》れる心を持っているとは信じない。それらの人々には私の用意はよけいな心遣いとも見えよう。しかし私には師の慈悲深き渋面が見ゆるような気がする。私の心の奥に君臨する裁き主の前に uneasy な気がする。それゆえ私は半ば人に半ば自分に弁疏しなくては気になるのである。
 四、五年前まで私は何の苦も無く他人に話しかけ、働きかけた。そしてその胆気と自由とをみずから誇っていた。けれど私は厳しき試練に遇ってその無知を罰せられた。人をも身をも損《そこな》い傷つけた。私はそのときから畏れる心を知った。他人の運命を傷つけてはならない。われとわが聖霊を鬱《うっ》してはならないと。「私は生きている。私の周囲には他の人間や動物や草木が生きている。私らは同じ太陽の下にともに生き[#「ともに生き」に傍点]ている。私は彼らに愛を感ずる。彼らに触れたい、話したい、働きかけたい。かくすることはすべての生けるものの純な願いで、そして善いことである」
 私はかつてかく考えた。私はこの信念にジャスチファイされて勇ましくかつ公けに他人に働きかけた。他の生命に触れ、揺すり、撼《うごか》し、抱き、一つに融けようとして喘《あえ》いだ。そしてその結果は自他ともに傷ついたのである。その惨《みじ》めな結果はその公けの動機に対していかにしても不合理な気がして私は天地を呪《のろ》いかけたほどであった。しかし私はそのとき初めて地上の運命と、それに対する知恵とに目醒めたのであった。私は今でもそのときの私の願いをそれ自身悪いものと思われない。もしこの世が天国であったなら、善の法則に対抗する悪の法則が無いならば、知恵なき無邪気のままで、すべての純な願いはことごとく容れらるべきである。求むる心はただちに与うる心に、愛は必ず感謝に出遇うべきである。また他人を不幸にするような不調和な願いは生じないはずである。私は今でも、きわめて現実的な気持ちでかかる国をあこがれる。しかし地上には人間に負わされたる運命がある。私はそれを知らなかった。私は今ではただ他人に呼びかけたいから呼びかけるのは浅いことを知っている。他人に無用意で働きかけたことを後悔している。それは自他の運命を損うたからだ。それはじつに私の罪――過失であった。そういうことを許して貰えるなら。しかし過失もその報いから免れることはできない。見よ私も、友も、彼女も、妹も、みなその報いを受けている。それは償われなければならない。私は恕《ゆる》してくれよといいたい。しかし地上の禍悪はおもに人間の過失から生ずるのである。いったんの過失が永い悲哀を遺《のこ》すのである。人間はやはりみな本来は神の子であるらしい。がただ悪魔に魅入られている。みずから企《たくら》んで他人を傷つけるような悪人はそういるものではない。しかし地上の約束を知らない無知を悪魔に乗ぜられるのである。そして自他の運命を傷つけるのである。善良な人間の犯す罪はほとんど過失といってもよい。過失だからとて責任を免れることはできない。現に自分の前に自分のために傷ついた人がいるとき過失だからとてみずからを責めずにいられようか? あわれな子守が愛している幼児を負うて溝に転んだ。子供は片輪になった。大きくなってもお嫁にもゆかれない。その報いはいつまでも続く。たといその児は恕《ゆる》してくれても、子守の心は一生傷つくであろう。それに恐ろしいことには一人の運命が狂い出すと、その周囲の人々の運命が共に狂い出す。罪は罪を孕《はら》み、不幸は不幸の因となる。私は仏教の「業」という思想を深いものと思う。私らの不幸なのも、祖先が積み重ねた罪や過失の報いが深い因を成している。アダムとイブの過失から人類の運命が狂い出したという聖書の原罪の思想には深いグルンドがある。私たちは過失を恐れなくてはならない。けれども最も恐ろしいのはその過失がみずから気のつかぬような深所に、しかも道徳的な仮面を被って、自分の反省の届かない域に潜んでいるときである。それを見いだすのは知恵の深さに待たねばならない。聖人とはかかる知恵の深い人のことであろう。昔から悪魔が聖者を試みたときにはかかる一見道徳的に狡《ずる》い方法を用いているのでもわかる。私らはみずから気のつかぬのみか、善と信じてしたことが、知恵の足りないために、かえって他人を傷つける結果となることが多い。かかる過失は心の純なイデアリストがかえってしばしば犯すものである。そして最も深い過失である。私らは何ゆえにかく過失にみちているのであろうか? この問題を考え詰めるとき、深い問題の場合にはいつでもそうであるごとく、ここでも私らは永遠な、宗教的意識のなかには入り込む。思うに私らはナイーブなままでは善くあることはできないらしい。私らの享《う》けたる「生」のなかには、すでに「善」の芽と「悪」の芽とが混
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